「偉い人の逃げ足は速い」ソ連軍の奇襲をよそに、民間人を見捨てて姿を消した日本軍と憲兵隊 #戦争の記憶
日ソ中立条約は1941年4月13日、東南アジアへの南進政策を進める日本と、ドイツの侵略に備えるソ連の思惑が一致し、両国の間で調印された。相互不可侵と、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合、他方は中立を守ることなどを定めていた。条約の有効期間は5年だった。 しかし、ソ連は1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツ降伏後に対日参戦することを米英両国に約束する。そして、米軍が同年8月6日、広島に人類史上初めて原爆を落とすと、ソ連は機を失せずに2日後の8月8日、一方的に条約を破棄して日本に宣戦布告したのだった。
応戦するすべを持たなかった日本軍
ソ連軍による最初の羅津への爆撃は、羅津港に浴びせられた。埠頭に積んであった物資や倉庫が炎上した。埠頭のドラム缶は破裂して油が海上に流れ出し、港内は火の海と化した。日本船十数隻はほとんど大破した。 日本軍に応戦する能力は、皆無に近かったようだ。戦前、陸軍は羅津市街に要塞司令部を置いていた。海軍の司令部は羅津の南方に位置する楡津(ユジン)にあったが、戦艦など艦艇は平素、碇泊していなかった。さらに、7月下旬になると、北朝鮮東海岸中部の港湾都市・元山(ウォンサン)への移動命令を受け、司令部は移転を終えていた。 爆撃は街も襲った。得能は家族と共に、自宅の庭に築造された防空壕に退避した。防空壕の深さは約1.5メートルで1畳ほどの広さ。18歳だった兄の秀和が出征する前日の7月末、「役に立つかもしれないから」と言って一人で丸1日がかりで掘ったものだった。得能の回想が続く。 「防空壕の中にいる間も地鳴りがしていました。朝になって、ようやく外に出ると、官舎はほぼ全壊していました。目の前には直径が40メートルほどもあろうかと思われる、すり鉢状の大きな穴が開いていました」 爆撃は10日まで続き、電線はいたるところで切断された。停電でラジオも電話も不通になった。
「避難命令を出す必要はない」
そのころ、羅津沖にはソ連艦船が往来していた。船影を目撃した邦人は、間もなくソ連軍が上陸すると考え、警察や憲兵隊は庁舎を自らの手で爆破した。 驚くことに、要塞司令部は当時、民間人を見捨てている。 羅津府尹(市長に相当)の北村留吉が戦後に執筆した手記には、要塞司令官とのやりとりが記されている。 それによると、北村が8月9日に要塞司令官に会って、戦況を訊くと、「ソ連の来襲は、みな奇異に感ずるが、アメリカその他への義理合上、参加したもので、真から日本と闘う意志があるとは思えない。(中略)丁度、張鼓峰事件※の時のように」と答えた。市民への被害を懸念すると、要塞司令官は「避難命令を出す必要はない」と明言した。 要塞司令官は、今回のソ連軍による空爆について、張鼓峰事件と同様の偶発的な衝突であり、まもなく停戦になるという楽観的な見通しを示し、民間人を避難させる必要はない、と足止めさせていたのである。しかし、実際はソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告したことは、すでに記した通りである。