「黄表紙本」を世に広めた鱗形屋孫兵衛
1月12日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第2回「嗚呼(ああ)御江戸」では、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)が吉原の案内本『吉原細見』を製作するため奔走する様子が描かれた。その序文を依頼すべく蔦重が探し回った流行作家は、意外にも蔦重がすでに出会っていた人物だった。 ■平賀源内の心を動かした蔦重と花の井 吉原に客を呼び集め、河岸を立ち直らせようとする蔦重(つたじゅう)が思いついたのは、吉原の案内本『吉原細見』の序に、話題となっていた才人・平賀源内(ひらがげんない/安田顕)の文章を掲載することだった。源内が老中・田沼意次(たぬまおきつぐ/渡辺謙)と知己であると知った蔦重は、以前、田沼と出会うきっかけになった貧家銭内(ひんかぜにない)という人物を訪ねる。 源内と引き合わせる条件で銭内を吉原に連れていき、接待を行なっていると、銭内と源内が同一人物であることが判明する。さっそく蔦重は序文を依頼したが、源内は吉原の魅力を見出すことができず、乗り気でない様子だ。 その席へ、花魁(おいらん)・花の井(小芝風花)が現れる。花の井は源内の亡くなった想い人である二代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)になりきり、源内を接待する妙案を思いついたのだった。 花の井の舞う姿に在りし日の菊之丞を見た源内は、蔦重の求める序文を書き上げて花の井に渡し、吉原を後にした。 それからまもなくして、さまざまな思いのこもった『吉原細見』が完成し、蔦重は喜びの声をあげるのだった。
■江戸の大火と重版問題で転落した孫兵衛 鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)は、日本橋大伝馬町三丁目に店を構えた地本問屋。生没年は分かっていない。店は明暦年間(1655~1658年)あるいは万治年間(1658~1661年)に創業したという。 初代・鱗形屋加兵衛、二代目・鱗形屋三左衛門に続く三代目が、劇中に登場する孫兵衛で、二代目以降は〝孫兵衛〟の名を代々継承していたようだ。 創業当初は、上方で発行されていた流行の浮世草子(うきよぞうし/当時の世相を描いた娯楽小説)を江戸で販売していたが、やがて浄瑠璃本(じょうるりぼん)などに手を伸ばした。鱗形屋が江戸を代表する地本問屋に成長を遂げたのは、絵師・菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の描いた絵本を扱ったことがきっかけだったという。 吉原を紹介する案内本『吉原細見』の販売権を、ほぼ独占するようになったのは1758(宝暦8)年から。もともと『吉原細見』はいくつかの版元から発行されていたが、この年から鱗形屋の独占に近い状態になり、鱗形屋の地位は確固たるものとなったようだ。 ところが、1772(明和9)年に起こった江戸の大火が鱗形屋の勢いに冷水をかけることとなった。 起死回生の一手として刊行されたのが、1775(安永4)年の『金々先生栄花夢』だった。地方から出てきた青年が江戸で味わった成功と没落を描いた内容の物語で、同書は初めて出版された「黄表紙本(きびょうしほん)」とされている。 黄表紙本とは、挿絵をふんだんに取り入れた、いわば娯楽本に分類される。当初はおおよそ10ページ程度の薄い本だったらしい。 子ども向けのおとぎ話などが書かれたものを「赤本」と称したのに対し、歌舞伎や浄瑠璃などを題材に青年向けとして書かれたものを「黒本」と呼んだ。また、主に遊郭を舞台に恋愛を主軸として描かれる「青本」などもあった。 黄表紙本は、当時の世相を写実的に描写し、知的かつ風刺をきかせた滑稽な内容と評されることが多い。 『金々先生栄花夢』は、鱗形屋孫兵衛が絵師・恋川春町を画工に起用して刊行した。同書のヒットをきっかけに、黄表紙本が続々と登場する。なお、「赤本」「黒本」「青本」「黄表紙本」などは、それぞれ表紙の色にちなんだ名称である。 鱗形屋は、恋川春町(こいかわはるまち)や朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの手による黄表紙本をいくつも手掛けたものの、『金々先生栄花夢』を発行した年に重版問題を起こして人形町田所町への転居を余儀なくされたのをきっかけに、家運が傾き始めた。 やがて鱗形屋孫兵衛は、西村屋与八(にしむらやよはち)や蔦屋重三郎に板株を譲り渡すこととなり、出版界の第一線から退いたという。 なお、鱗形屋孫兵衛の吉原細見『細見嗚呼御江戸』は、蔦屋重三郎の名前が確認できる最も古い資料としても知られている。
小野 雅彦