大好評御礼! 仲野太賀×上出遼平×阿部裕介がおくる唯一無二の旅物語『MIDNIGHT PIZZA CLUB』の冒頭を大公開!
俳優・仲野太賀さん、写真家・阿部裕介さん、TVディレクター・上出遼平さんの三人が結成した旅サークル「MIDNIGHT PIZZA CLUB」(通称MPC)。 【写真】超楽しそう…! 爆笑する仲野太賀さん 彼らがネパールの「世界一美しい谷」を目指した冒険を、阿部さんと仲野さんが撮った100枚を超える写真、上出さんの文章で楽しめる唯一無二の旅物語『MIDNIGHT PIZZA CLUB 1st BLAZE LANGTANG VALLEY』が爆誕! 発売即重版の大好評を記念して、本書の冒頭を大公開します! 三人と一緒に、心躍る旅に出かけてみませんか――?
MIDNIGHT PIZZA CLUB
その男は突然やってきた。 「あのー。こちら上出さんのご自宅であってますか?」 施錠された扉の前で、男は寒そうに体を揺すっている。私と阿部ちゃんは暖房の良く効いた部屋で、その様子をモニター越しに眺めている。 「あれ? 違ったかな。あれ、すいません、上出さんのご自宅ではないですかね?」 私たちはあまりの驚きに適切な一言目を見つけられない。男は不安そうにモニターの中を右に左に動き回り、「違ったかなあ」とぼやきながら携帯電話を顔に近づけて眺めている。あるいはインターフォンのカメラに向けて、携帯電話で何かを確認している様を演じている。男は演じるのが上手い。もしかしたら、私たちがモニターのこちらで息を潜めていることにも気づいているかもしれない。 「本当に来た」と私の耳元で吐息混じりに囁く阿部ちゃんが、驚きと喜びと困惑とが一緒くたになったような、ざっくり言えばちょうど変態のような顔をしてじっとこちらを見つめている。阿部ちゃんは時折この顔をする。子犬がびっくりするとおしっこを漏らしてしまうのと、だいたい同じ原理だ。 軒下の男は檻に入れられたネズミのように動き回っている。 まずい、と私は思う。ニューヨークの冬はざっくり北極バリに寒い。風が吹けば瞬く間に体温を奪われる。そう、ここはマンハッタン。そのうえ夜の十二時を過ぎている。日本にいるはずのその男は、突如として私が借りているアパートの玄関先に現れ、そして深夜の風に吹かれて凍えているのだ。 ざっくり一刻を争う状況である。 私は何かに導かれるように、インターフォンのコントロールパネルに手を伸ばす。 〔終了〕と〔解錠〕のボタンが隣り合って並んでいる。その手前で、私の指はぴたりと止まる。 このまま居留守を貫き、男を凍てつく深夜のニューヨークに置き去りにするか。あるいは迎え入れ、このあと確実に巻き起こる混乱に身を委ねるか。 私は自分の人生を振り返る。幸運なことに可もなく不可もない幼少期を過ごし、幸運なことに大学にまで進学して、幸運なことに立派な企業に就職し、幸運なことに独立して、幸運なことにニューヨークで暮らしている。全ては導かれるままに。 ジーーーー 耳障りなアラートが鳴り響き、玄関扉の錠が解かれる。私は〔解錠〕のボタンから指を離し、濁流に身を任せる準備を整える。そしてリュックサックを背負った男が部屋に転がり込んでくる。 「やっと会えたー!」 男の名は仲野太賀。俳優である。 三人が揃って顔を合わせたのは、この時が初めてだった──と言うには色々と唐突すぎるから、順を追って説明しよう。 新型コロナウイルスが豪華客船で日本に押し寄せたのと時を同じくして、写真家の阿部ちゃんと私は出会った。雑誌に掲載するスノーボードウェアの撮影で、被写体が私、カメラマンが阿部ちゃんだった。阿部ちゃんと私はどちらもその雑誌チームに初めて招集された立場で、いささか門外漢の感が拭えなかった。雪の溶けかけたゲレンデで、十年ぶりのスノーボードを滑らせる私を、阿部ちゃんは並走しながら撮影する。ときに私を止まらせ、眩しそうな表情をさせたりなどしてまたシャッターを切る。そばにいる編集者に写真を送ると、その編集者が東京にいるクライアントに転送する。私は大変な不安に襲われる。就職活動で経験した、合否を待つ時のあの居心地の悪さだ。しばらくすると返事が来たのだろう、スマートフォンを持つ編集者の元に、アシスタントやクリエイティブディレクターが駆け寄る。八秒程度のゴニョゴニョが終わると、編集者は妙に明るい声で「もう何パターンかいきましょう!」と声を上げる。私は気を遣わせているのを感じて泣きそうになりながら、再びリフトを目指して滑り降りる。ゴーグルを外せば、滲み出す涙を風が根こそぎさらってくれる。わかっていたんだ。自分がスノーボードウェアのモデルに相応しくないなんてこと。むしろ相応しい箇所を見つけることのほうが難しいんだ。しかしもしかしたら、という希望的観測がいけなかった。物事はそう思い通りにはいかない。私と阿部ちゃんは二人並んでリフトに座る。 「なんかすいませんね」 私がボードに着いた雪を執拗に蹴落としながら詫びると、「いやいや! 結構良いの撮れてるんですけどね!」と阿部ちゃんは勇気づけてくれる。その顔をチラリと覗き込むと、気まずさと不甲斐なさと困惑とがないまぜになったような、やっぱりズバリ変態のような顔をしているのだった。 というのが私と阿部ちゃんとの初顔合わせである。完成した雑誌はとても素敵で、我が両親などは普段見せない息子の爽やかな表情に喜悦の声を上げたものである。 以来、阿部ちゃんは私に写真のことを教えてくれる先生となった。カメラを買いに行くにも付き添ってくれたし、フィルムを現像に出すにも付き添ってくれたし、私が一人である美術展に行った際、たまたま家族連れで来ていた阿部ちゃんは私の姿を見つけるなり家族そっちのけでこちらに付き添ってくれるのだった。それからは仕事でもしばしば顔を合わせることがあった。山岳ブランドの撮影では私が被写体、阿部ちゃんがカメラマンの座組で山に入ったかと思えば、人気モデルでごった返すファッションブランドのイベント会場で遭遇したこともあった。動画撮影を依頼されていた私のカメラモニターに、突如ヒゲまみれの山賊が映り込んだと思ったら、それが写真撮影を依頼された阿部ちゃんだった。私と阿部ちゃんは、登山業界とファッション業界を節操なく行ったり来たりするいささか稀な存在であることと、ファッション関連の撮影では嫌な汗が吹き出すことが共通している。阿部ちゃんは主に著名人のポートレイトやブランドの広告撮影を生業としているが、ライフワークの現場は山にある。バイテンと呼ばれる、木箱のような古くて重い写真機を担いでヒマラヤあたりの山に登る。そして信じられないほど高価なフィルムを装塡し、たった数枚の写真を撮る。それが写真家阿部裕介の本来の姿である。そうして撮られた写真は写真集になったり、雑誌の表紙を飾ったり、お金持ちの家に飾られたりしている。いずれにしても、拷問のようなその作業によって撮られる写真はやはり圧巻なのである。 一方、太賀くんと私が出会ったのはもう少し後のこと。パンデミックが概ね収束した夏の、代々木上原の海鮮居酒屋で彼は私を待っていた。温泉帰りだという太賀くんはサラサラの髪の下で頰を紅潮させて、「初めましてー」と笑っている。すると隣のツナギ姿の男がさらにサラサラの前髪をかき上げて「ここ、食べログの星少ないんだけど美味えんだよ。何飲む?」と注文を促してくれる。出会った人間を全て虜にしてしまうカルチャー人間磁石こと、スタイリスト伊賀大介である。 「ようやく会わせられたわー」と、センター分けの髪をなおかき上げながら眼を細める伊賀さんもまた、剝いたばかりのゆで卵みたいにツヤツヤとしている。兄弟のように仲の良い二人は、忙しい合間を縫って馴染みの温泉へ朝から車を飛ばしてきたらしかった。 「次絶対(ゼッテー)上出くんも連れて行くわ。本当に(マジ)素晴らしい(ハンパじゃない)から」 江戸っ子丸出しの伊賀さんはそう言うと、いつも背負っているバックパックから「てやんでえ」などと呟きながら裸の本を摑み出した。 「これすごく(ベラボウに)面白かった(おもれー)から」 読書家の伊賀さんは会うたびに新旧問わず推薦図書を持って来てくれる。 「いいんですか!?」 「いいよいいよ、もう一冊持ってるから(あたぼうよ)」 ここで「何で二冊買ったんですか?」などと聞いてはいけない。「野暮だね兄ちゃん」と伊賀さんの声が遠くから聞こえる。 伊賀さんが推薦する店は間違いない。私たちは大きなコロッケなんかに舌鼓を打ちながら、生ビールを際限なく飲み干していく。風呂上がりの二人は言わずもがな、私の体もゴクゴク酒を取り込み酔っ払う。店を変え、酒を変え、前後を失い、記憶を手放し、私が意識を取り戻したのは心地よい朝日が降り注ぐ渋谷の道端だった。 と、そのような夜を経て、気がつけば翌月には伊賀太賀上出の三人で山道具を買い揃え、奥多摩山中に湧く三条の湯へ湯治に行き、さらにその翌週、私と太賀くんとはバカでかいバックパックを背負ってアラスカの荒野を歩いていたのである。酔いに任せて山の魅力を説いたのだったか定かでないが、少なくともあの夜、山へ通ずる二人の扉を開いてしまったことは間違いないだろう。 とにかく、私と阿部ちゃん、私と太賀くんはそのようにして出会った。そして、恥ずかしげもなくミッドナイト・ピッツァ・クラブ(MPC)と名乗るようになったのが、二〇二三年十二月。冒頭のニューヨークである。 阿部ちゃんと私がニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に降り立つと、電波をキャッチした携帯電話が複数の不穏なメッセージを受信した。送り主は仲野太賀。一連のメッセージは、私たちが空の上にいた時からおよそ二時間おきに送信されていた。 一通目は、下位置から自分の顔を捉えた写真に「こっちはめっちゃ寒いよ」と添えられている。背景の青々とした空の隅に、実にアメリカらしい緑色の道路標識が端だけ写り込んでいる。絶妙な画角で、標識の記載内容も解読できなければ、その他に場所を特定できる要素は見当たらない。立て続けに「とりあえず、フォー食べてます」というコメントと写真が送られて来ている。そのフォーは、器にしても、表面に浮かぶローストビーフのようなピンク色の肉にしても、添えられた生バジルとレモンとモヤシにしても、紛れもなくニューヨークスタイルのフォーだった。私は勘づいた。この日のおよそ一ヵ月前、仕事で日本に滞在していた私と入れ違うように、彼は休暇をニューヨークで過ごしていた。その時の写真を使って、まるで自分も今ニューヨークにいるように演じて面白がっているのだろう──私はしばし、戯れに付き合おうと思った。なぜなら彼はこの旅に参加できず、寂しさを抱えているはずだったからだ。 私と阿部ちゃんは、今回のニューヨーク滞在のことを太賀くんに伝えていた。もしも時間があったらおいで、と。とはいえ、彼を誘ったのは渡航の確か三日前で、売れに売れている俳優である太賀くんは当然ながらスケジュールの調整ができなかった。当然である。だからあまりにも直前に、中途半端に声をかけてしまったことに仄かな罪悪感を覚えていた私は、彼の子どもじみたいたずらに付き合う義務があると思ったのだった。がしかし、次のメッセージが私を混乱させた。「ぼちぼちロシアンサウナでボルシチかますとしますか」というコメントと共に送られて来た写真。白い器になみなみ注がれた真っ赤なボルシチの横に、見慣れた書籍が置かれている。『歩山録』というタイトルのそれは、上梓したばかりの私の著作だった。おかしい。一ヵ月前には、この本はまだ発売されていない──いや、違う。この写真は、東京のロシア料理屋で撮ったものに違いない、そう私は考えた。危ないところだ。過去の写真と今の写真を巧妙に織り交ぜて攪乱してくる。もしかしたら、この戯れのためにわざわざ私の新刊を買い、食べたくもないボルシチを食べにロシア料理屋に入ったのかもしれない。実に侮れない小僧だ。私は早鐘を打ち始めた心臓を宥めすかし、何とか入国手続きを済ませ、なぜか顔中に玉汗を走らせる阿部ちゃんを連れて、マンハッタンの自宅に辿り着いた。 そのわずか十五分後。阿部ちゃんが来客用のベッドに寝転び「めちゃくちゃいいじゃんここ!」と張り上げる声を搔き消すように、大音量の呼び鈴が鳴った。モニターの中では、最初に送られて来た写真と同じ格好をした仲野太賀が、じっとこちらを見て立っていたのだった。 正直、引いた。 こいつ、マジで来たじゃん、と思った。 そして私たちはそれから丸三日、眠ることも忘れて遊び続けた。妙な興奮は何度布団に潜り込んでも途切れることがなかった。ダイナーで飯を食い、自転車で街を駆け巡り、クラブで踊り狂い、カラオケで喉を嗄らし、ピザ屋に駆け込んで腹を満たした。それが悪夢のように繰り返された。熱病に冒されたようで、出口のない輪に囚われたようでもあった。ニューヨークのピザ屋は朝まで営業している。というより、朝までやっている飲食店といえばピザ屋くらいしかない。だから私たちは、連日連夜ピザを食うことになった。何度目かわからない深夜ピザの後、何軒目かわからないクラブへ向かうタクシーの中で、私たちはミッドナイト・ピッツァ・クラブという名を授かった。噓じゃなく、私たちのタクシーに衝突するようにして、その名前は私たちのもとにやって来たのだった。 さて、そんな混乱の中で、私たちはネパールに行くことを決めたらしい。正直言って私はその過程を覚えていない。酒を飲まない阿部ちゃんが後日そう教えてくれた。胃袋をパンパンに満たした私たちは、我が家に尾羽打ち枯らして帰りつき、わざわざ日本から持って来たカップラーメンを肴にめげることなくビールを呷り続け、次の旅はネパールだと決めて、私は自分のベッドに、太賀くんは客用のベッドに、そして阿部ちゃんはクローゼットの床に寝たらしい。ありがとう阿部ちゃん。そして私たちの旅が始まった。 いざ、男たちはネパールへ! 気になるつづきは、単行本でお楽しみください!
仲野 太賀、上出 遼平、阿部 裕介