よりにもよって元東大教授に…散歩中の認知症の夫に子どもが浴びせた「あまりにも残酷な罵声」
講演活動への不安と悩み
いちばん悩んだのは、お手洗いの問題です。失敗はもちろん心配でしたが、講演を中断して用を足しに行かねばならなかったこともあり、頭の痛い課題でした。 加えて、言葉がいっそう出なくなった、という事情もあります。 聴衆が知らない人ばかりだと、晋はかえって話せるのです。 ところが、旧知の友人・知人が参加したとたん、様子が変わりました。 控室まで挨拶に来てくださる方もいて、それはそれでうれしいことなのですが、なぜかそのあと晋は言葉につまってしまうのです。 久しぶりの再会で、緊張するのか。 それとも、過去の自分と比較されることを恐れているのか。 恥ずかしいと感じるのか――。 2011年には講演で北海道に招かれました。司会は向谷地生良さんで、昔なじみのクリスチャンの友人が何名か、控室を訪れました。 だんだん言葉数が少なくなっていく晋。 それを横目で見ながら、不安を募らせる私。
言葉が出ない
講演が始まります。 司会が向谷地さんだったので、何とかなるだろうと思っていたのですが、その考えは甘かったようです。 晋は壇上にあがりましたが、緊張しているのか、口からは一言も出ません。マイクを手にしましたが、それをどこに向けたらいいかすら、わからないようでした。 私のサポートもうまくいきません。 ほとんど発言ができないまま、時間だけが過ぎていきます。 いよいよ最後になり、司会者が、 「何か一言」 と促したとき、晋は私の耳元でこうささやきました。 「何て言えばいいの?」 「『自分は自分です』と言えば?」 晋は聴衆のほうを向いて、 「自分は自分です」 と締めくくりました。でも、棒読みです。晋の発言なのか私が言わせているのか、わからなくなってしまいました。
講演活動は話だけでない
講演後、私たちは札幌に1泊しましたが、翌日も気分が晴れません。 〈断ればよかった〉 〈いよいよ講演も終わりにしなくては〉 新千歳空港で羽田行きの便を待ちながら、私は参加者に申し訳ない気持ちでつぶれそうでした。 そのときです。 「わ~か~い せ~んせ~い」 見知らぬ女性がふたり、名前を呼びながら駆け寄ってきました。 「先生、昨日はありがとうございました。感動しました」 「お元気で頑張って下さい」 手を差し出され、ふたりと固い握手を交わす晋。その顔には、こぼれんばかりの笑みが浮かんでいます。 話こそ失敗しましたが、晋の存在そのものから何かをくみとってくれる人がいる。 心に陽光が射し込みました。
若井 克子