19世紀のイギリス外交官は、なぜ「日本という極東の国」に魅入られたのか? その意外な理由
「ある本」を読んだ
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】アーネスト・サトウは、こんな顔でした 日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『一外交官の見た明治維新』(講談社学術文庫)という本です。 著者は、イギリスの外交官であるアーネスト・メイスン・サトウ。1843年にイギリスに生まれたサトウは、明治初期の日本を訪れ、在日イギリス公使館の通訳官や、駐日公使を務めました。 本書は、サトウが日本に滞在した期間に見聞きしたことをまとめたもの。そこからは、当時の日本が世界のなかでどのような立ち位置にあったのか、イギリスという「文明国」から日本がどう見えていたのか、あるいはそのころの国際情勢が伝わってきます。 たとえば、サトウが日本という国に関心をもった経緯、そして日本に訪れるまでの経緯からは、当時の国際情勢が垣間見えます。本書より引用します(読みやすさのため、一部改行などを編集しています)。 〈最初に日本に興味を持ったのは、まったくの偶然がきっかけだった。十八歳のとき、兄が貸本屋のミューディーズから借りてきた、ローレンス・オリファントによるエルギン卿使節団の中国・日本訪問に関する回想録を読んだのである。〉 〈この本によって、日本とは空が常に青く、太陽が常に照り続けている国で、男たちはバラ色の唇と黒い瞳を携えた魅力的な乙女たちに伴われて座敷に寝そべり、築山のある小さな庭を窓越しに眺めながら毎日を過ごしているという色鮮やかなイメージをかき立てられた。つまりは、現世のおとぎの国である。 このときには、神の祝福を受けたかのようなこれらの島々を訪れる機会を得られるとは、さすがに夢にも思わなかった。だが、そのあと間もなく、エルギン卿使節団よりも前に日本を訪れたペリー提督の遠征記を読む機会を得た。それは、よりずっと冷静な体裁・筆致で書かれていたが、それでもオリファントの回想録から得た印象を確固たるものにするには十分であった。以後、他のことは考えられなくなった。 ある日、当時学んでいたユニバーシティ・カレッジの図書館に入ると、学長の名の下で本学から中国・日本への通訳候補生を外務省に推薦するので、希望者を募るという内容の告示がテーブルの上においてあった。長いこと渇望していた機会が訪れたのである。これに応募することに両親は少なからず難色を示したが、何とか許可を得ることができ、試験を首席で合格した私は日本行きを希望した。 中国に行くことには、まったく興味がなかった。応募可能年齢の下限もぎりぎりで満たしていた私は、一八六一年八月に正式に通訳候補生としての任を拝命し、十一月に多くの希望を胸にイングランドを後にした。 当時は日本語を学ぶにはまず中国語を勉強する必要があると信じられていたので、私は同じく通訳候補生であったR・A・ジェミソンとともに、最初に数ヵ月間北京の在中国公使館での勤務を命じられた。一八六二年には、これまた日本公使館付きとなったラッセル・ロバートソンも合流している。〉 〈中国ではいくつか興味深い体験をしたが、同地のことについて詳しく知るためにはあまりにも時間が足りなかったので、この場でそのときの経験について述べることは控えたい。だが、このときに数百字の漢字を覚えたことが後々大いに役立つことになったのは事実であり、またこの機会に満州語の勉強もはじめたのであった。 北京滞在は、江戸から送られてきた書簡によって突然短縮された。日本の政権中枢にいる人物たちによって書かれたこの書簡を、中国人は誰も理解できなかったのである。この出来事をきっかけに、中国語を理解していれば日本語もすぐ習得できるという当時の通説に疑問符が投げかけられた。 たしかに漢字を学ぶことは日本語能力の上達に役立つところもあるが、日本語を勉強しようとしている者にとっての中国語というものは、スペイン語やイタリア語を勉強しようとしている者にとってラテン語がそうであるように、必要不可欠と言うほどではないと思われた。そして、今でもそう思っている。そのようなことがあったので、我々はすぐさま日本へと送られたのである。〉 日本語を学ぶためには、中国語が必要だと思われていた……当時の西洋の国々が日本をどのように見ていたかが、うかがい知れるような記述です。 * さらに【つづき】「イギリス外交官が「幕末の日本」を訪れたとき「最初に感動したこと」」の記事では、横浜にやってきたサトウの「日本の第一印象」についてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部