「俺たち無事だと伝えて欲しい」大震災の朝もトラ番は甲子園に向かった…草分け記者が見た90年代阪神の熱狂「20歳の新庄剛志」「あの退団騒動」
女性野球記者の草分け的存在である日刊スポーツの堀まどか記者へのインタビュー。第2回は、当時女性では珍しかった阪神タイガースの番記者時代を振り返ってもらった。(全3回の2回目/1、3回目も公開中) 【発掘写真】「キャー! 新庄く~ん」紫スーツにド派手ネクタイがまぶしい新庄剛志(21歳)“ギャル”に追いかけられて照れ笑い…原点の阪神時代など、この記事の写真を見る 堀記者は1992年から阪神タイガース担当となる。最も多くの紙面を割いてその動向を伝える関西のスポーツ紙で、“トラ番”は花形だ。どんな小さなニュースも逃すまいと担当記者同士、鍔迫り合いを演じる現場は日々、刺激的だったという。 「とにかく強烈でした。ニュースの抜き合いで毎日が喧嘩のようなもの。現場では和気藹々とやってはいるけれど、お腹の中では絶対によそを出し抜いてやろう、という記者の集合体でしたから」
「箱乗り」「夜討ち朝駆け」の日々
試合の取材のみならず、四六時中チームをぴったりとマークするのがその仕事だ。遠征ではチームと同じ飛行機や新幹線の便で移動する「箱乗り」が基本だった。 「早朝の東京駅のホームでまず選手が全員いるかどうか確認して、 ちょっと隙を見つけては取材をする。新幹線が発車する間際に駅の売店で、アイスクリームのコーンにみたいに積んであるスポーツ紙を全紙買って乗り込んで、大阪に帰って甲子園に行く、みたいな生活でした」 選手や球団幹部の自宅に取材をかける「夜討ち朝駆け」も当たり前。女性記者は他社に1人いるかどうか、という超男性社会だったが、だからと言って特別扱いはなかった。 「球団の幹部の方なんかは皆さん、いいところに住んでらっしゃるんですよ。たまに夜の10時を過ぎても家の前で帰りを待っているときなんかは、閑静な住宅街の家の灯りがぽつりぽつり消えていくなかで、“私は一体何をしてんのやろ”と思う時もありました。近所の方の“何この人? ”という視線を受けながら待ち続けて、ようやく帰りを捕まえたと思ったら『コメントはないです』とか。そんなのも当たり前でしたからね」
「亀新フィーバー」の嵐の中で…
ゆっくり食事をとる時間すらない生活は、周りにいる20代の女性のそれとは全く違っていたが、苦痛とは感じていなかったという。 「学生時代からの友達と会った時に、全然世界が違うんやな、と感じることはありましたけどそれが嫌だとは思わなかったです。自分はそういう社会に生きているんやな、と思っていましたから」 担当1年目の92年、中村勝広監督就任から2年間最下位に沈んでいた阪神は久々の躍進を見せた。亀山努、新庄剛志の「亀新フィーバー」が吹き荒れ、シーズン終盤までヤクルトと優勝争いを演じた。 「あの年は久しぶりに虎の凄まじい人気を目の当たりにしました。新庄選手は入団3年目、まだ20歳でしたが、今に通じる派手なオーラはありました。ベルサーチが大好きだったし、スタイルが抜群で常にフレグランス! というようないい匂いを漂わせていてね。彼に一番密着していたのは先輩記者で、私は若手トラ番として新庄選手に煙たがられながらも必死に取材していましたが、常に精一杯答えてくれたし、若いながらも阪神のスターとしての立場をしっかり全うしていた姿が印象深いです」
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