戦後最大の冤罪・袴田事件「ずっと収監されていた巌。出所したら苦労なんてすっ飛んじゃって…」姉のひで子さんが今思う<50年以上も頑張れた理由>とは
◆恐ろしい思いをした警察での取り調べ 巖がとっつかまって、私たち家族は、警察に連れられましてね。兄(長男)も母も嫁いだ二人の姉もわたしも。たまたま養子に行った兄(二男)は下田にいたもんですからね。家宅捜査はありませんでしたが。 わたくしの狭い6畳ひと部屋の粗末なアパートにも、朝7時ごろかなあ、警察官が4人くらい来ましてね。捜索令状って見せるでしょ。それに「袴田巖、強盗殺人犯」って書いてある。 それを見て、「これ、なんだろうなア」と思いました。何のことだろうと思って家宅捜索を受けました。 家具があるわけじゃなし、押し入れと箪笥、食器棚、冷蔵庫くらいでした。その中を(警察は)ひっかき回していました。巖がその前に来てお味噌を持ってきたんです。こがね味噌の。 それを3つか4つお勝手に置いていった。そしたら持っていくものがないから、それを持って行ったんです。なんか探してたんでしょう。 浜松中央警察署に連れていかれました。私はさっぱりわからないから怖いとも何とも思いません。取調室っていう狭い部屋に連れていかれて、私を一番奥に入れて、刑事が出れないように入り口にした。 何か質問したんですが。その質問がもうすっかり忘れておりますの。それでお昼になりまして、カツ丼取ってくれたんです。私はそれをがつがつ食べちゃったんですよ(笑)。 朝ごはんも食べてなかったんで。後から考えれば、食べなきゃよかったとも思ったんですが。まあ懐かしいというよりも、そういう恐ろしいことがありました。
◆巖が出てきた時、本当にうれしかった 50年の苦労なんてすっ飛んじゃってねえ。喜んで喜んで、喜んで笑顔になりました。 その前は恐ろしい顔してて、言いたいことだけ言って、すっと帰ってくる、集会でもそういうことばかりしていました。 それが巖が出てから、やたらにニコニコしてねえ。私、もともとニコニコする性分なんです。33歳からパタッとニコニコがなくなりました。それが復帰しました。 この頃はね、猫ちゃんを飼ってるんです。2匹保護猫を。(私は)巖とはほとんど話しないけど、わかるから。必要なことは巖が言ってくるから。「そうしよう」、「こうしよう」とか言う。 「ボタンが取れて困った」と言うからつけてあげたり。お風呂なんかも自分で入れて入ってちゃんとしますの。(湯を)入れてあげようとすると寝ちゃったりする。 私が作ったものも食べるんですが、この頃は毎晩ウナギを食べております。それで「髪が黒くなった」なんて言ってるんです。本人は「ウナギ食べてりゃ死にやせん」と言うんです。 自分の思うようにさせてやりたい。私は風呂入っても栓抜いてしまう。巖は夜中に風呂入れて入っている。1時間も入ってるので。心配して覗いてみると、頭から足の先まで洗っている。 朝は早い時は6時ごろ起きる。巖は最近、早く起きて自分の部屋に籠っている。座り込んで考えごとしてるんです。昨日も今日も。そして所定の位置に座ってテレビ見ている。 ちょっとは元に戻ったようなところがあるような、ないような、まだ妄想の世界の中におります。妄想の世界から抜けだせないみたいです。治らないのはしょうがないと思っています。昨日、大阪行ってきましたの。
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