母親の墓参りのための一泊旅行で、現地の男と一夜限りの関係を…認知症になったノーベル賞作家ガルシア=マルケスの遺作について小池真理子が綴る(レビュー)
『百年の孤独』『コレラの時代の愛』などで知られる、ノーベル賞作家ガルシア=マルケスの”遺作”『出会いはいつも八月』が新潮社から刊行された。 認知症をわずらい、執筆が覚束ないなか、書き紡がれた「性」の世界は、どのようなものか? 『恋』、『神よ憐れみたまえ』などの長篇小説で「生と性の世界」を描いてきた作家の小池真理子さんが、魅惑あふれる「遺作」を読み解く。
小池真理子・評「グラジオラスの花束と共に」
私のガルシア=マルケス初体験は遅い。初めて読んだのは、八十七歳で没した彼の、いわば最後の作品となった『わが悲しき娼婦たちの思い出』である。2006年、新潮社で日本語訳が刊行された直後、なぜか読みたくてたまらなくなり、書店に走って買い求めた。電車の中で読み始めたのだが、やめられなくなって困った。 言わずと知れたラテンアメリカを代表するノーベル文学賞作家である。それまで、ラテンアメリカに関する私の知識はあまりにも貧困すぎた。暑さも熱気も、嵐の凄まじさや獰猛な動植物たち、さらに言えば、昂ぶっても絶望しても、嘆いてもはしゃいでも、いつだって命のほむらが燃え立っているとしか思えない、その国民性に至るまで、アジアのおとなしい小さな島国から見れば圧倒されることばかり。若いころから親しみ、なじんできた欧米の小説や物語とは、何もかもが異なっているとしか思えない。ただそれだけの理由で、長い間、ガルシア=マルケスという作家を敬遠していたことを深く羞じたのもその時だった。 以後、彼の代表作『百年の孤独』(身近な友人知人に、面白い物語を読ませたい、という理由だけで書いたという長編。世間の小難しい文学批評など吹き飛ばしてしまうほどのスケールで描かれた、勇壮で芳醇な人間ドラマ)、『コレラの時代の愛』(奇妙なタイトルだが、五十年以上にわたる長い歳月、たった一人の女性に恋い焦がれ、待ち続けた男の物語)などの長編のほか、傑作中編として名高い『大佐に手紙は来ない』、若いころに書かれた幻想的な短編『青い犬の目』等々を読むようになった。読めば読むほど、この作家に惹かれていった。 彼の小説は長編短編を問わず、おしなべて桁外れに面白い。そうとしか言いようがない。語りにつられて読み進めていくうちに、ページをめくる手が止まらなくなる。映像が浮かび上がる。音が聞こえてくる。においが漂う。頭の中のスクリーンで、毎度、ガルシア=マルケス原作の映画が勝手に上映されるのである。 人生の闇をどれほど複雑に深刻に描いていても、どこかしら開けっぴろげで明るい印象がある。生きることを肯定する、理屈のいらない天性の明るさ。それは彼が生まれたカリブの土地の気質そのものであるような気もする。 子ども時代、彼はケルト系生まれの祖母から、連日のように謎めいた神秘的な民話や幻想的な言い伝えの数々を聞かされ続けていた。その影響は計り知れない。 死者が平然と彼岸から戻ってくる。主人公は説明のつかない直感や予知能力を働かせて、ふしぎな体験をする。こんなことはあり得ないだろう、と思われるようなことでも、彼の生み出す物語はきわめて現実的であり、どこかでこのようなことが実際に起こっている、と感じさせる。読者は我知らず、物語の宇宙に誘われ、のめりこみ、現実と虚構の境目がおぼろになっていく。カリブ的気質とケルトふうの神話が溶け合い、シャッフルされて、ガルシア=マルケスの世界が生まれたのだと思う。 この天才的な物語の魔術師は、2010年ころから記憶力の減退を呈するようになった。認知症である。老いは誰にでもやってくる。ガルシア=マルケスにすら。改めてそのことを思い知らされる。 そのため、『わが悲しき娼婦たちの思い出』の次に発表されるはずだった本作、中編小説の『出会いはいつも八月』は、未完のままの状態で放置されることになった。 未完、ということの意味は定かではない。筆が途中までしか進んでおらず、ラストシーンに至ることができなかった、ということなのか。それとも、一応は予定通り、最後まで書き上げはしたものの、全体として入念な推敲がされていない、という意味なのか。