母親の墓参りのための一泊旅行で、現地の男と一夜限りの関係を…認知症になったノーベル賞作家ガルシア=マルケスの遺作について小池真理子が綴る(レビュー)
いずれにしても、作家当人はすでにこの世のものではないのだから、出版の了解を得ることはできない。しかし、その完成度の高さから、捨ておくにはしのびないとして、遺族が出版に踏み切ったのだという。 作家亡きあと、新たな遺作が出版されたケースはこれまでなかったわけではないが、たいそう珍しいことである。文字通り、最後の作品だからこそ遺作と呼べるのであり、第二第三の遺作、というのは理屈上、あり得ない。何よりも、作家は自分の死後、満足な推敲もできていない作品が許可なく出版されることを決して望まないはずなのだ。 だが、遺族や関係者らにとって、この『出会いはいつも八月』は、たとえ故人への礼を失することになったのだとしても、読者に届けなければならない作品だった。ガルシア=マルケスは認知能力が損なわれていたからこそ、自身が書いた本作の真の魅力がわからなくなってしまったが、実はこの作品には、往年の語りくちがそっくりそのまま息づいていて、何ら遜色がない、というわけである。本作を読み、私も改めてつくづく、記憶障害とはいったい何なのか、認知症は作家にとって何ほどの影響も与えないではないか、と思った。ここには何ひとつ衰えていない、あのガルシア=マルケスがいる。 主人公は、アナ・マグダレーナ・バッハという名の、四十代後半になる教養豊かな女性。指揮者(マエストロ)としても活躍中の、たいそう魅力的な音楽家の夫との間には、息子と娘が一人ずつ。夫婦関係はきわめて良好で、何年たっても恋人同士のような情熱的な性愛を交わし合っている。 そんなアナは、毎年八月になると、カリブの島の高台に埋葬されている母の墓にグラジオラスの花束を供えるため、一人で連絡船に乗って出かけて行く。鳴き交わす賑やかな鳥の声に囲まれ、鬱蒼とした原生林や黄金色のビーチを見下ろせる「世界で唯一の場所」での墓参を終えると、定宿にしている古いホテルで寛ぐ。ベッドに寝ころがって、持参した読みかけの小説を読み、着替えてからホテル内のレストランで簡単な夕食をすませる。そしてゆっくり眠った翌朝はもう、帰りの連絡船に乗り、帰路に着く。 恵まれた家庭生活、これといった不満のない人生を送っていながら、それは彼女にとって、独りになる快適さを味わえる、夫公認の一泊旅行だった。 ある年の夏、アナは夜遅く、ホテルでの遅い夕食のあと、ドビュッシーの「月の光」を弾き始めたピアノ伴奏家の横で歌う、混血(ムラータ)の少女の歌に心揺さぶられ、めったにないことだったが、ジンのソーダ割を注文した。すっかり陽気な気分になり、同じく一人で席に座っていた男と会話を交わした。たちまち親しくなり、気がつくと彼女は自分の部屋に男を招き入れ、ベッドを共にしていた。夫以外、男を知らなかった彼女が、生まれて初めて体験した秘密の冒険だった。 それ以後、アナは毎年、八月になると、母の墓参を名目に島を訪れ、自分でも滑稽なほど興奮しながら、一夜限りの相手を探すようになる。だが、母の墓に向かって秘密の情事を告白する彼女の中に、自分でもどうすることもできない変化が起こり始める。当然、夫にも気づかれる。夫婦の間には不穏な空気が流れ……といった具合に物語は進められていく。 よくある不倫ドラマのごとき展開、などと、したり顔で評する者がいるのだとしたら、それはガルシア=マルケスが生前、嫌っていた西欧の知識人特有の通俗的な感想と言うほかはない。青く続く浅瀬(ラグーン)が見渡せる古いホテル、天井でけだるく回り続ける扇風機、夕暮れの暑さの中、滴り落ちてくる汗、墓地の藪の奥から姿を現すイグアナ、焼けついた砂とバナナの木々など、貧困と富とが同居しているカリブの島が、文字を通して脳内で鮮やかに映像化される。男と女が一夜限りで睦み合う時の、シーツにしみこんだ汗のにおいを嗅ぎとる。読者は現実なのか、一篇の官能的な散文詩なのかわからない物語の中で、知らずアナと同化していく。 作中、グラジオラスの花がたびたび登場するが、色については言及されていない。この作家は黄色が大好きで、黄色い花が室内に飾られているだけで、何かいいことが起こる、と信じていたというが、このグラジオラスも黄色だったのか。 ちなみに思いたってグラジオラスの花言葉を調べてみた。「密会」「禁断の逢瀬」「忍び逢い」などといった言葉が並び、ひょっとすると、作家はこのことを知っていて、小説にグラジオラスを使うという酔狂なことをしたのかもしれない、と楽しい想像をめぐらせた。 主人公の名前……アナ・マグダレーナ・バッハ、というのも、音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハの二度目の妻と同名である。推測の域を出ないが、主人公の父、夫、義父母、さらには長男を成功した音楽家に設定したためではないか、と考えられる。 物語を芸術の域にまで高めた、この偉大な作家は、人生の終わりに認知症と闘いつつも、カリブふうの茶目っ気のある遊びを見せてくれている。生前のガルシア=マルケスの魅力を何ひとつ損なうことなく、ここにきてまた一つ、心躍る「遺作」が誕生した。 [レビュアー]小池真理子(作家) こいけ・まりこ 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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