日本人の「裁判嫌い」は本当?…日本は欧米に比べて「人口比の民事訴訟数」が少ないのはなぜなのか?
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】日本人の死刑に関する考え方は、先進諸国の中では「特異なもの」だった 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈日本人は「気分」や「雰囲気」で重大な紛争の種をみずからまいている…日本人のあいまいな法的意識の「深層」〉にひきつづき、民事訴訟に関する現代日本人の法意識についてみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
民事訴訟──日本人は「裁判嫌い」なのか?
日本では欧米と比べて人口比の民事訴訟数が相対的に少ないが、これはなぜだろうか? この点につき、川島書の最後の「民事訴訟の法意識」では、「訴訟で黒白をつけることが日本人の友好的な協同体的関係の基礎を破壊するからである」とされている。つまり、「日本人の裁判嫌い」がその原因だというのである。しかし、これについては、独断的だとする批判も多い。この論点は現代日本人の法意識とも深くかかわるものなので、やや詳しく論じてみたい。 私も、基本的には、川島のこの見解は、かなり単純化された議論だと考える。 もっとも、民事訴訟の提起に対するためらいや距離感についていえば、私が裁判官に任官した1979年に近い時期には、庶民的な人々の間では、訴えを提起し、あるいは提起されること自体が恥ずかしいことだという意識がかなり強かったのは事実だ。また、民事と刑事の区別もあまりよく認識されておらず、当事者本人が、「こうして裁判沙汰にされてしまって……」、「近所でも評判になって……」といった、裁判制度全般への距離感をあらわにした言葉を和解の席等で無意識のうちによく口にしていたのは、鮮明に記憶している。 そのような言葉をほとんど聞かなくなったのは、1990年代に入って以降、つまり、日本経済が低成長期に入ったころ以降のことだった。そうした意味では、民事訴訟制度に対する人々の意識のもち方が欧米並みになってきたのは、比較的近年のことなのかもしれない。 また、日本人は、本来、個人的なレヴェルでは慎重な人々であり、争いを好まないし、裁判という、みずからの行為の理非が証拠と論理によって截然(せつぜん)と垂直的に裁断される事態については、できれば避けたいと考える人が多いだろう。私自身、自分自身が訴訟当事者になる事態は、あまり考えたくない。 以上のような意味では、「日本人の法意識は、訴訟についてあまり親和的ではない」とはいえる。 しかし、一方、私の33年間の裁判官経験では、そのような日本で人々があえて訴訟を提起する動機としては、紛争について、和解ではなく判決によって事実関係と結論を明確にしてもらいたいというものもかなり多い、というのが事実である。 それに、訴訟が好きか嫌いかといった言い方をするなら、訴訟が「好き」な国民など、まずないであろう。病院や歯科医院にゆくのが「好き」な国民があまりないのと同じことである。 裁判によって理非を明らかにしたいという欲求自体はかつてに比べ高まっているにもかかわらずなお日本の民事訴訟が比較法的にみて少ない原因としては、日本人の法意識が訴訟についてあまり親和的ではないことと並んで、訴訟にかかる費用と時間が普通の市民にとっては予測しにくいこと、弁護士の数が最近までは非常に少なかったこと、制度の不備、法教育の不十分さや法的リテラシーの未熟さ(法意識の未熟さは、法的リテラシーの未熟さにつながる)、裁判官や弁護士の姿勢、政治家を含む権力者の考え方といったことが、大きなものとして挙げられるのではないかと思う。 制度の不備としては、日本の法律扶助制度が国際的にみれば「後進国水準」であり、せいぜい訴訟費用が立て替えられうるにすぎないことの問題が大きい。普通の市民の身近な紛争の大部分は弁護士の採算ベースに合わず、国家の関与するリーガルエイドによって弁護士の報酬が支払われなければ、その関与は望みにくい。逆に、リーガルエイドの制度が充実していれば、2000年代の司法制度改革によって増加し、生活に困窮する者さえいるという若手弁護士についても、一定の能力さえ備えていれば、それを社会のために生かすことはできるはずなのである(拙著『民事訴訟法〔第2版〕』〔日本評論社〕の項目四四三)。 裁判官や弁護士の姿勢については、次のような問題が挙げられよう。 (1)裁判官が事件の早期多数処理を急ぐために当事者を強引に説得して和解を押し付けがちな傾向(裁判所・裁判官のこうした傾向は、江戸時代以降現代まで、実に一貫している)。 (2)弁護士も、和解であれば成功報酬が確実に手に入ること、はやっている弁護士の場合和解で手持ち事件が整理できることもあって、意識的・無意識的に依頼者の意向を軽んじて和解の方向に動かされやすいこと。 (3)日本の裁判官が請求認容のハードルを高く設定しやすい傾向。 (4)弁護士報酬基準の設定が各弁護士にゆだねられていることなどから、弁護士と接する機会のない普通の市民にとっては、弁護士費用がどのくらいかかるかの予測が付きにくく、したがって弁護士を依頼しての提訴に踏み切りにくいこと。 最後に、政治家を含む権力者の間では、日本では、伝統的に市民個人の権利はあまり重視されておらず、したがって、訴訟制度に対する関心も低い。行政訴訟等の統治と支配の根幹にかかわる訴訟はできる限り押さえ込みたい、また、庶民のどうでもいいような紛争など、費用や手間を使わず和解で早く終わらせるに越したことはない。そんなところが、口には出されない暗黙の共通認識であろう。 この点に関しては、明治時代に新たに裁判所制度が創設された当初の民事訴訟新受事件数、また勧解(裁判所の調停と類似の制度)の申立新受事件数が当初は非常に大きかった(訴訟だけでも人口比で現在の三倍程度はあった)が、その後いずれの件数も急速に減ってしまったという事実も参考になる。 その理由については、明治政府の訴訟抑制政策によるところが大きかったのではないかとの意見が多いが、制度発足当初には、人々が従来から抱えていた紛争について一斉に申立てを行ったから件数も多かったのだとの分析もある。私も、後者も一つの理由ではあるものの、より大きな理由は、前者の訴訟抑制政策ではないかと考える(以上につき、林屋礼二ほか『統計から見た明治期の民事裁判』、『明治前期の法と裁判』〔ともに信山社〕)。 裁判官が司法省の傘下にあり、その役割についても国民の権利保護ではなく広義の治安維持に重点が置かれていた明治期の裁判所の民事事件に対する姿勢について、人々が失望し、その傾向が戦後までずっと尾を引くことになったという推測も、成り立ちえないではなかろう。 以上のとおり、日本の民事訴訟が比較法的にみて少ないことの理由は、まさに日本人各層の法意識の根源にかかわる、根の深い問題なのである。 ところで、2000年代の司法制度改革後弁護士の数が非常に増え、裁判官数もかなり増えたにもかかわらず、地裁民事訴訟(通常訴訟)新受事件数は、いわゆる過払利息返還請求訴訟が多かった時期に増えただけでその後は減少傾向を示し、現在では、実に、「司法制度改革前の1990年代後半よりも小さい数字」になってしまっている。 この事態については、「弁護士や裁判官を増やすことによって司法制度を使いやすいものとし、潜在的な訴訟を掘り起こす」という司法制度改革の最大の目的とは真っ向から背馳するものだ。つまり、その意味では、司法制度改革が成功したとはとてもいえない。また、こうした事態の原因については、制度設計が確かな見通しに基づいたものでなかったこと、前記のような法律扶助制度の不備等の問題もあるが、何より、裁判所が、また司法全体が人々から必ずしも信頼、期待されていなかったことが、大きなものとして考えられる。少なくとも、その原因を人々の法意識だけに帰することはできないであろう。 * 本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)