世界初の化学テロ「松本サリン事件」から今日で30年 直後の「地下鉄サリン」を防げなかった理由とは
今日から30年前、1994年6月27日に長野県で発生した松本サリン事件。翌年には地下鉄サリン事件が起き、この2つの事件は化学兵器が一般市民に対して使われた世界初の事例となっている。松本サリン事件はなぜ起きたのか? また、なぜ地下鉄サリン事件は防げなかったのか。経緯を振り返っていく。 ■松本市で起きた、世界初の無差別化学テロ 場所は長野県松本市北深志の住宅街。普段は静寂に包まれる深夜から早朝の時間帯、1994年6月27日から翌28日にかけては状況が違った。救急車とパトカーが続々と到着し、慌ただしく死傷者を運び出す。文字通りの喧騒と恐怖の一夜だった。 死者8人、負傷者600人以上を出したこの事件は、凶器として散布された化学兵器の名から、「松本サリン事件」と命名された。 何者による犯行か特定できないまま年を越え、1995年3月20日の午前8時頃、今度は東京の中心部、営団地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の5本の車内でサリンが散布され、死者13人、負傷者6000人以上を出す事件が起きた。こちらは「地下鉄サリン事件」と呼ばれる。 この2つのテロ事件は、化学兵器が一般市民に対して使われた世界初の例。世界で最も治安がよいとされてきた日本で起きただけに、世界中に衝撃を走らせた。 ■強制捜査まであと少しのところで「地下鉄サリン」が起きた 松本サリン事件の発生当初、長野県警は第一通報者を犯人とみなした。メディアでも「サリンは農薬から簡単につくれる」という誤った認識から、サリンの被害者でもある第一通報者を犯人視する報道が続いてしまった。 その後、捜査本部はサリンの製造に必要な薬品の調達ルートからオウム真理教にたどり着いたが、相手が宗教法人となれば迂闊な行動は取れなかった。捜査令状が取れるだけの証拠がなく、仮に取れたとしても、すでに証拠隠滅済みで空振りに終われば捜査本部の責任が問われ、教団側が抵抗して再びサリンを使用すれば大惨事を免れない。 とはいえ、オウム真理教とサリンの関係は点と点が線になりつつあり、捜査令状の請求まであと少しという時に起きたのが地下鉄サリン事件だった。 ■強制捜査で明らかになった動機 警視庁と山梨県警の合同捜査本部がオウム真理教に対する強制捜査に着手したのは、地下鉄サリン事件から2日後の3月22日のこと。名目上は2月28日に起きた目黒公証人役場事務長拉致事件の捜査だが、山梨県上九一色村(当時)にある教団施設に割り当てられた捜査員や機動隊員たちは防毒マスクを着用するなど、最悪の事態も想定して任務に当たった。 拉致された事務長はすでに殺害されていたが、「サティアン」と呼ばれる教団施設からはサリン製造を裏付ける証拠が次々に上がり、同年5月16日までに、教祖の麻原彰晃、本名・松本智津夫を始め、教団幹部約40人が逮捕され、彼らの証言からサリン事件を起こした動機も明らかとなった。 松本サリン事件はオウム真理教が当事者となっていた裁判(松本市で道場・食品工場用の土地を取得しようとしてトラブルになっていた)の判決を遅らせるため、長野地方裁判所の職員官舎を標的としたもの。そして、地下鉄サリン事件は教団本部への強制捜査を断念させるため、警視庁の最寄り駅を標的にしたものであると。 ■衆議院選挙に惨敗し、武装が本格化 オウム真理教が最初に人を殺めたのは1989年2月のこと。被害者は脱会の意思を示していた信者だった。これで殺人に対する躊躇が消え失せたのか、同年11月には、教団を批判した坂本弁護士の一家3人を殺害している。 翌年2月の衆議院選挙には新政党「真理党」の名のもと、教祖の麻原と信者24人が立候補するが、全員が落選し、供託金5000万円が没収された。麻原は選挙結果を国家権力による陰謀、票数操作が行われたと公言し、これを契機に教団の武装化を本格化させた。化学兵器の開発もその一環だった。 なお、オウム真理教が宗教法人として認可されたのは1989年8月のことで、1996年には法人格を喪失。その後は「アレフ」、ついで「アーレフ」と名称を改めるうちに内紛が起こり、現在は「アーレフ」「ひかりの輪」「山田らの集団」の3教団に分かれているが、どれもが公安調査庁の観察処分対象とされている。 平成生まれの若者はサリン事件を知らないため、オウム真理教の後継教団に入信する者が少なくないと聞く。松本サリン事件から30年という大きな節目を迎える今年、2つのサリン事件だけでなく、オウム真理教が犯した凶悪事件すべてを改めて掘り起こし、二度と同様の組織が現われず、同様の犯罪も起きぬよう、日本人全体が気を引き締め直すべきだろう。
島崎 晋