バルチック艦隊破り日本は一等国、南樺太を日本領とした「ポーツマス条約」
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。
北緯50度以南の南樺太も領土に
1875(明治8)年、日ロ間で締結した「樺太千島交換条約」により、樺太はロシア領、代わりにウルップ(得撫)島以南を含む全千島列島が日本領となりました。その30年後の1905(明治38)年、前年から続いた日露戦争を終わらせるため、ポーツマス条約を交わし、新たに北緯50度以南の南樺太が日本領となります。条約締結の背景では、何が起こっていたのでしょうか。
ロシアの南下政策への警戒から始まった日露戦争
18世紀に入り、海洋進出を強めていたロシアは、1年中凍結しない不凍港を求め、南下政策をとり、その矛先はアジアへと向かっていきました。1891年から始まったシベリア鉄道建設も、ロシアが日本海進出をもくろんでいると、日本側が警戒心を強める要因となります。やがて朝鮮半島をめぐり、利権拡大を進めるロシアと、日本海に突き出た朝鮮半島がロシアの支配下に置かれることを恐れた日本の間で1904(明治37)年2月、日露戦争が勃発しました。 日本は遼東半島先端部にあった1万5千人以上が亡くなった旅順要塞の攻略など、多数の戦死者を出しましたが、国際社会の大方の予想を裏切り、戦況を優位に進めます。一方、ロシアは、日本不利と見ていたため、相次ぐ敗北でも戦いを継続しようとしましたが、ロシア海軍バルチック艦隊が壊滅状態になった日本海海戦の日本大勝利(1905年5月)で、ようやく和平協議に動き始めます。
米国が仲介役となって実現 ポーツマス講和会議
1905年6月1日、講和会議の仲介役として日本が打診したのは、米国セオドア・ルーズベルト大統領でした。米国は中立国の立場でしたが、ルーズベルト大統領は日露開戦当初から日本支持を公言していました。また、「モンロー主義」と称された米国で伝統的だった孤立主義から脱却を図り、国際社会のリーダーになろうという当時の思潮の変化や、東アジアでロシアの力を弱め、代わって影響力を強めたいと考えていたこともあり、積極的にその役を務めます。 交渉の舞台は、ワシントンDCやフランス・パリなどが候補に挙がりましたが、警備のしやすさなどから、合衆国政府直轄地で、海軍造船所がある東部の港湾都市ポーツマス(ニューハンプシャー州)に決定。日本は外務大臣・小村寿太郎が全権大使に、ロシアからはセルゲイ・ヴィッテ全権代表が臨みました。 8月から始まった交渉は、一時決裂が危ぶまれるほど、難航しました。背景には、これ以上戦争継続できる戦力を持たない日本、同年1月に第1次ロシア革命が起き、国内の混乱鎮圧を優先したいロシア、少しでも優位な内容で講和を成立させるため、表向きには大っぴらにできない双方の国内事情がありました。 結局、約1カ月がかりの交渉で日本は、領土として、北緯50度以南の樺太と付属の諸島を手に入れました。これは、ポーツマス講和会議が始まる直前の7月、ルーズベルト大統領から助言を受け、日本が樺太に侵攻し、全島占領したことも影響しました。また、沿海州とカムチャッカの漁業権や、発端になった朝鮮半島への日本の優越権などを得ることが出来ましたが、ロシアから戦争賠償金を得ることは出来ませんでした。