「記憶を記録に留め」戦争体験証言集第30集を刊行 大阪の出版社
1988年から年1回のペースで発行
「記憶を記録に留め」戦争体験証言集第30集を刊行 大阪の出版社 撮影:岡村雅之
大阪市内でこのほど開かれた「『モノ』が語る戦争展」。企画したのは新風書房代表福山琢磨さんで、会場には来場者らと語り合う福山さんの姿があった。戦争展開催の契機となったのは、市井の人たちの戦争体験を記録する証言集「孫たちへの証言」だった。福山さんが編集者を務めて1988年から年1回のペースで発行され、この夏第30集刊行の節目を迎えた。 【拡大写真と動画付き】残された校舎の壁が伝えるもの 大阪・北野高校の機銃掃射痕
体験から...神戸空襲で焼夷弾に襲われた女学生
第30集の表紙は、空襲に襲われた家族が逃げまどう情景を描く。子どもたちは恐怖のあまり、泣きわめく。全国から636編の応募があり、戦争を直接体験した人の手記「体験編」51編と、家族らの戦争体験を近親者が聞き書きした「伝承編」26編を掲載した。 「体験編」では、大阪府枚方市在住の80代女性が神戸空襲で重傷を負った体験を報告する。1945年6月5日の夜明けごろ、神戸市須磨区の自宅で米軍の空襲を受けた。女性は高等女学校に通う16歳で、40歳の母親、20歳の姉と外へ飛び出すと、すでに自宅には火が回り始めていた。 上空をB29が焼夷弾を落としながら飛んでいく。女性は爆風を受けて左腕を複雑骨折し、母親に支えられて海岸へ向けて逃げる。再びヒューという音がしたため地面に伏せると、さく裂した焼夷弾の破片が背中に当たり、わき腹あたりを斜めに貫通した。母や姉とはぐれて歩くうちに、また焼夷弾に襲われ、左足に激痛が走る。焼夷弾の破片が足裏から足の甲へ貫通していた。 ひとりでさまよい意識を失う。運よく姉に発見され助かるものの、母親は頭に焼夷弾の破片を受け、即死したと聞かされた。食糧難が続く中、女性が友人からもらった1個のトマトを元気だった母親に手渡すと、おいしそうにほおばった笑顔が忘れられないという。焼夷弾は木造住宅を延焼させる火力ばかりではなく、周囲に飛び散る破片の殺傷力も脅威だった事実が伝わってくる。
体験...火の手が迫る中、乳母車の車輪が動かない
「伝承編」で兵庫県川西市の70代男性は、母親から聞かされていた姫路空襲下の親子の行動を記録として書き留めた。45年7月3日から4日未明にかけ、姫路は2度目の空襲を受けた。父親は出征し、姫路で暮らしていたのは7歳の男性と、32歳の母親、4歳の妹の親子3人だった。 火の手が迫る中、妹を乗せた乳母車の車輪に、散乱する鉄線がからんで身動きがとれない。乳母車を動かそうともがく母親をあざ笑うかのように、新たな火の手が上がる。母親によると、男性が思わずつぶやいたという。 「お母ちゃん、ここで死のか……」 幼い我が子の声に、母親が奮い立つ。 「アホ! こんなところで死んだらお父ちゃんに怒られる」 母親は懸命に乳母車を押し出し、親子3人で火の手の見えない方向へ逃げて助かった。しかし、空襲に先立つ44年5月、父親は南方戦線で戦死していた事実が後に明らかになったという。男性は慰霊訪問などを通じて、孫たちの世代へ戦争の悲惨さを伝える活動に取り組んでいる。
第1集刊行は1988年、応募総数は1万9367編
第1集の刊行は1988年。第30集までの応募総数は1万9367編、掲載総数は2384編におよぶ。昨年「伝承編」を新設し、戦争体験を若い世代が受け継いで記録していく態勢を整えた。戦争体験証言集の長期定期刊行はきわめて珍しい。戦争展の会場でもバックナンバーとともに紹介された。 福山さんは「記憶を記録に留まる大切さをかみしめる30年だった」と振り返る。「一時応募作品が減ったときは苦しかったが、なんとか続けることができた。これからも証言集の刊行とともに展覧会などを企画していきたい」と意欲を示す。詳しくは新風書房の公式サイトで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)