高校指導者から転身…ソフトバンク・大越基4軍監督 単独インタビューで語ったこれからの展望とは
来季から就任するソフトバンクの大越基4軍監督(53)が、本紙の単独インタビューに応えた。2003年にダイエーで現役引退後、09年からは早鞆(山口)で監督を務めており、22年ぶりの復帰となる。4軍は高卒の育成選手を中心に心身を鍛えるピラミッドの基礎だ。教員、指導者の経験を生かし「嫌われる監督」になることを宣言。自身の経験と重ね合わせ、選手には日本シリーズを経験してほしいと願った。(聞き手・福浦 健太郎、木下 大一) ――驚きのホークス復帰でした。 「自分も驚いています。季節外れのエープリルフールじゃないかと思いました。(プロに)指導者として戻ろうと思って高校野球をやっていたわけではないので。話をもらった時は物凄くうれしかった」 ――4軍は若い選手が多い。早鞆での高校野球指導の経験が生きてくる? 「教員は伝え方やしゃべることが仕事だった。そこがプロ野球の指導者にはない自分の武器だと思います。いろんなタイプの選手がいるので、アプローチを変えながら浸透させていきたい」 ――会見で愛情を持って接すると語った。 「4軍監督に就任する際、高校(仙台育英)の時の校長先生からお電話をいただいたんです。“今年もたくさん、選手が辞めた。愛情を持って接すればその子たちも、嫌な気持ちにはならない。愛情を持って接しなさい”と言われて涙が出ました。愛情を持って接したいと思います」 ――小久保監督とは同学年です。 「(現役時代は)一緒に食事もなかった。監督はよく練習する人格者。自分はどちらかというとそんな感じではない。あまり好かれていなかったかもしれないです(笑い)」 ――12月末で早鞆を去ることには? 「寮を出られるのはうれしかったです。築60年くらいで室内アンテナでした。BSも映らなくて、大谷選手の試合も見られなかった。そこから出られると(笑い)」 ――周囲の反応は? 「凄すぎですね。同じ人間なのに、早鞆の先生とホークスの4軍監督は違いますね。毎年、仙台に里帰りするんですが、今年は7、8人に声をかけられましたね」 ――ご家族はどう受け止めましたか? 「妻は大反対でした。自分にそういうのはできないんじゃないかという見方と、教員は安定していますから。両親は後押ししてくれていました。自分は次の道でやっていきたいというのがあった」 ――今までは甲子園。これからは? 「目指すものは日本一ですね。育成の選手たちにも、日本シリーズに出てほしい。日本シリーズでプレーしたことは脳に刻まれて忘れない。そこを目指し、実現するような言葉かけをしていきたい」 ――自身の記憶も鮮明? 「(99年の日本シリーズで)外野守備走塁コーチの島田誠さんに“スタメンかもしれない”と言われました。寝られなかった。結局、スタメンじゃなかったですけどね(笑い)。でも、日本シリーズは全部、覚えています」 ――確かに99年ダイエー初優勝、日本一は熱狂だった。 「これからは強いチームの一員として、しっかりと教えられるような指導者になっていきたい。好かれるだけではなく、嫌われてもいい。高校の監督をやっていても、嫌われていました」 ――卒業すると教え子との垣根も取れることもある。 「そうですね。下関から筑後に引っ越ししたんですが、引っ越し会社に就職した教え子が全部やってくれた。指名しなかったけど来てくれて。嫌だったら来ないと思う。うれしかったですね」 ――指導者冥利(みょうり)に尽きる。 「嫌われるし、悩むし、嫌なこともありますけど、先生をやってきて一番いいのは教え子のそういうところですね。1月からはいっぱい悩みたいし、嫌われたいと思います」 ◇大越 基(おおこし・もとい)1971年(昭46)5月20日生まれ、宮城県出身の53歳。仙台育英時代は3年春と夏に甲子園出場。夏は全試合に完投して準優勝した。早大を中退し、92年ドラフト1位でダイエーに入団。プロ入り後に野手に転向。03年限りで現役引退。09年に早鞆の監督に就任した。24年12月末で退職。右投げ右打ち。 【取材後記】 聞けば聞くほど冒険の人生。仙台育英では甲子園準優勝投手となり、進学した早大では1年春季リーグから活躍した。ただ、部の空気になじめずに中退。米国で野球を続けるとダイエーから1位指名。引退後、大学へ通い直して、教員免許取得。現在に至る。 「なんでこんなになっているんでしょうね。想定しない道ばかり。プロも入りたいとは思わなかった。学校の先生もやりたくない職業だった」と大越4軍監督は苦笑いする。 早鞆では12年の選抜に出場するなど、15年間監督を務めた。“やりたくない”ことを仕事にした結果、楽しい。まずは飛び込んでみることの大切さを、その人生が証明している。「(高校野球は)楽しかった。また、やりたいですね」。いつの日か、旅に出る。楽しい旅になりそうだ。(福浦 健太郎)