クビ、病気…人生いろいろが面白い 体に異常、字が読めない、言葉の意味が分からない 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<19>
《東京12チャンネル(現テレビ東京)の〝危険なディレクター〟として活躍する一方、映画を撮り、そこで作った借金返済のため執筆活動にも力を注いでいたころ、新たな騒動が》 僕の映画(『あらかじめ失われた恋人たちよ』昭和46年)に触発されたのかどうか、NHKのディレクターが同じように映画を撮る(『キャロル』49年)ことになった。ところが、NHKは撮影のための休暇を認めない。勝手に休んで撮ったら「クビ」だという。裁判沙汰になって僕も証人として出廷したんだけど処分は変わらない。そこで僕は騒動をそのままドキュメンタリー番組にしようと思って取材を始めたんですよ。 NHKの関係者にも取材をしていたら、NHKから東京12チャンネルへクレームが来た。何度も言うけど、当時の12チャンネルは〝弱小局〟。業務上でも、NHKにいろいろと頼っていたことがあったので、あっさり抗議に負けて、僕の番組は放送中止になってしまう。 おさまらない僕が取材に来た朝日新聞の記者に洗いざらいしゃべったら、社会面の記事になった。そうしたら、僕は、報道局→制作局へ異動だという。まぁ左遷ですな。仕事らしい仕事もなくなり、まったく干されてしまいましたねぇ。 《騒ぎはそれで収まらなかった。〝干されている間〟に田原さんが雑誌に連載していた『原子力戦争』(51年書籍化)が今度は物議を醸す》 原子力船「むつ」の放射能漏れに端を発した〝漂流生活〟がきっかけ。マスコミは非難一色になったけど、僕は(原子力利用の)反対派だけじゃなくて、推進派の言い分もみっちり取材してドキュメントノベルの形式で書いたわけ。その過程で、推進派運動のバックに大手広告代理店がいることが分かった。まぁ、電通のことですよ。 すると、今度は電通から12チャンネルへ抗議が来た。こんなことを書くディレクターがいるテレビ局に、スポンサーはやらない…といった類いのことですよ。困った12チャンネルは僕に「連載をやめるか、会社を辞めるか」と…。このことをきっかけにして、僕は電通のことを本に書く(56年)ことになるのですが、それは後の話。 結局、どっちもやめないでいると、上司がことごとく「管理不行き届き」で処分されてしまった。これはこたえましたねぇ。僕は退社届を出し(52年1月)、フリーのジャーナリストとして生きてゆくことを決めた。42歳。12チャンネルに対して恨みはまったくありません。むしろ、面白い仕事をさせてくれたことに「感謝」の気持ちでいっぱいでした。