ゴミ係のおじさんが「鳥羽城の未発見絵図」を発掘するなんて…ドイツ在住作家が「さすが日本」と感嘆したワケ
■本当の意味で「階級のない国」 ところが日本では、定年後にこれまでと全然違ったアルバイトをすることは珍しくない。職業に貴賎なしというのは建前だけではないし、はっきりいって、日本社会には階級がない。こんな国は珍しい、というか、私は他に知らない。 話が逸れたが、リサイクルパークだ。持ち込まれた史料は310点。最も多かったのは、地元の神社の祭礼で奏上されたとみられる明治時代の祝詞類で、その他、捕鯨やボラ漁など江戸~明治時代の漁業関連史料や、鳥羽城などの歴史史料も含まれていたという。 その後、それら膨大な史料の整理が鳥羽駅近くの「鳥羽市歴史文化ガイドセンター」で始まったそうだが、それから間もない7月21日、偶然にも学術団体「歴史地震研究会」の研究者、盆野行輝氏が現れた。氏は三重県の職員だが、かねてより鳥羽城が江戸時代に受けた津波被害についての研究をしていた。 鳥羽城というのは太平洋に面しており、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆(よしたか)が、安土桃山時代の文禄3(1594)年に築いた海城だ。九鬼は水軍を率いて、秀吉や織田信長のもとで活躍したと言われる。 ■江戸時代には南海トラフ地震の被害に 鳥羽城は、宝永4(1707)年と幕末の嘉永7(1854)年の2度、南海トラフ地震の津波に見舞われたほか、それ以前にも度々暴風雨などの災害に遭っている。 盆野氏は、古い史料を探し出し、被害状況の研究を進めていくうちに、今年の1月1日に発生した能登半島地震で、「地震による地殻変動で発生した地盤の隆起や沈降」と報告されている事象と、鳥羽藩が「潮位上昇」と認識した現象が、実は同様の沈降を示すのではないかと気づいた。そうであれば、新たな知見として、今後の研究や防災対策に役立たせることができるかもしれない(現在、鳥羽城は残っていない)。 盆野氏の過去の研究については、やはり産經新聞が今年1月20日付で報道しており、そこには、氏が昨年、1854年の「御用部屋日記」を新たに発見したことも記されている。「御用部屋日記」というのは、地震で破損した鳥羽城の石垣工事についての、藩の江戸詰藩士と幕府のやりとりを記録したもので、これにより、幕末の南海トラフ地震による鳥羽城の修復事情が逐一わかることになった。 なお、日本の城郭は「一国一城令」が発令された江戸初期の元和元(1615)年以降、新規築城が原則禁止となり、城の修復は幕府の許可が義務付けられた。その際、修復箇所を朱書きで図示した修復願絵図を老中に提出する必要があり、それらも、1792年の大風雨・高潮による破損から、前述の1854年の大地震と津波による破損まで計5回のうち、1800年の被害を除いてはすべて発見されていたという。