「点取主義」「頭が空っぽなのがわかる」100年前の東大生、メチャクチャ辛辣だった!
大正時代に東大の学生生活を綴った、『赤門生活』。試験漬けの生活を「点取り主義」だと嘆き、芸者遊び、ビリヤードなどに明け暮れたり、並の学生と同じような悩みを抱えていたことが伝わってくる。そんな生活の中から、自分は学校の勉強は得意だが深く考える力がない、と気付く学生もいた。※本稿は、尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● ガリ勉に嫌気が差すのは 東大生でも一緒だった 1913(大正2)年刊行の『赤門生活』(南北社)という本に、東京帝国大学法科大学(現・東大法学部)の学生の暮らしを描いた小説風の読み物が掲載されている。明治末期に岡山の第六高等学校(編集部注/戦後、新制の国立大学として発足した、岡山大学の母体の1つとなった旧制高等学校)を卒業した池田留吉が、上京して東大法科に入学してから卒業するまでの物語である。この本の「緒言」に「本書を書くには6名の学士を煩はした」と記されているので、誰かの実体験が反映されているのだろう。 池田の学生生活には、定番の浅草・吉原見物、日比谷公園の散策、運動会なども出てくるが、大学の講義と定期試験に大きなウェイトが置かれている。 当時東大法科は「学年制」を採用しており、定期試験で1科目50点以上、平均で60点以上を取らなければ進級できなかった。たとえば法律学科の第1回試験では、憲法、民法、刑法(総論)、ローマ法に、イギリス法・フランス法・ドイツ法のいずれか1つ、さらに経済学の試験が課される(『東京帝国大学一覧』)。この時期法科大学は4年制なので、池田は4回の定期試験をクリアし、最後の卒業試験に合格しなければ法学士になれない。
特に1年次の試験は緊張とガリ勉を強いられる。池田は「全く試験の為めに生きてたやうなものだ」「あゝつまらない、これぢやまるで試験の為めに学校へ入つたやうなものだ」と嘆息するものの、結果は首席で特待生の栄誉を得た。 2年次はお決まりのごとく中だるみとなり、ビリヤードなどの娯楽にも心を向ける日々を送るが、ある時大学の掲示板で懸賞論文の募集を知る。「世界の平和」に関する論文である。池田は応募してみることにした。 ● 懸賞論文で当選するほど勉強 卒業式で天皇から賞品を拝受 驚くべきことに、池田が東大図書館に足を踏み入れたのは、入学から1年以上経ったこの時が最初だった。東大の優等生ともなれば図書館に籠もりっきりという印象があるが、当時は必ずしもそうではなかったようである。 池田がそういうように、「金がなくて本が買へぬのぢやなし」、「参考書」を自分で買って読めばよい。むしろ、図書館で興味のままに1冊を手に取って読みふける時間が無駄とさえいえるのかもしれない。