サドを取り巻く女性たち──「閣下」と呼ばれた義母、最後通牒をつきつけた妻
絵に描いたような献身的な妻として尽くしてきたルネ=ペラジだったが……
『サド侯爵の呪い』のプロローグで語られているように、サドは囚人とは思われない贅沢な暮らしをしていたのだが、バスティーユでつけていた革製のゴーグルも、蝋燭の灯りを覆うランプの笠も、妻に調達してもらったものだった。サドは妻に手紙を送り、時には店まで指定して極上の品々を要求していた。 澁澤龍彦の『サド侯爵の手紙』によれば、18世紀の特権階級の監獄では、飲食費その他の経費をすべて囚人に支払わせていたそうだ。サドの場合も、経費の一切を家族が負担することになっていたという。 というわけでサドは贅沢品に囲まれ、妻が差し入れた食事やデザートを楽しみ、ぶくぶく肥えていった。 そもそもバスティーユの囚人の食事は、朝、昼、晩の計3回用意されているうえ、足りなければ勝手に注文できたそうだ。一方で、ルネ=ペラジはサドの高額な飲食費などをまかなうために、修道院の粗末な一室で暮らしていた。こんなに尽くしているというのに、サドは妻の浮気を疑って嫉妬に狂い、彼女が獄中のサドを訪問した際には、監視がつかなければならないほど危険な状態だったという。 こんな経緯をたどれば、彼女がくだした夫への最後通牒は妥当だったといえよう。だが当時、離婚という選択肢は非常に珍しく、手続きが難しかったので、ルネ=ペラジは別離の手続きをとることになった。1790年、サドが50歳のとき、ルネ=ペラジは別居および財産の分割をパリ裁判所に申請し、認可された。 男性優位の社会で、サドという厄介な男を夫に持ちながら、絵に描いたような献身的な妻として尽くしてきたルネ=ペラジが、残りの人生を自らの思うとおりに生きることを決意し、実行した。この点で、彼女は時代に先駆けていたといえるだろう。 ちなみに、1792年9月20日には離婚が制度化され、夫婦間の性格の不一致でさえも離婚の理由として認められるようになる。当事者の2人が当局に出頭し、申請後、2、3カ月の間に気持ちに変化がなければ離婚が成立したのだ。 つまり、あと2年待てば、ルネ=ペラジも複雑な手続きなどいらずに、離婚に進めたかもしれなかった。ただこうした流れは、1804年に公布されたナポレオン法典によって妨げられ、再び複雑な訴訟手続きを踏まなければ、認められなくなってしまう。そして、ナポレオン法典のもとでは、結婚した女性は夫の許しが得られなければ、法廷に出廷することも、売買も、相続も、銀行口座を作ることも禁じられた。 『サド侯爵の呪い』には、たとえ端役であってもとても魅力的な登場人物がたくさん出てくる。本連載の初回では、そのなかでも特に気になった女性たちを取り上げた。 あなたのお気に入りの登場人物はだれだろう。刑法175条(男性同性愛を禁止するドイツ刑法典の規定)の廃止を求めて活動したベルリンの精神科医イヴァン・ブロッホだろうか。それとも、赤い子爵夫人と呼ばれたサドの母方の子孫マリー=ロールか。巻物を手にした人々の人生にフォーカスしながら、『サド侯爵の呪い』を楽しんでいただくのもまたいいのではないだろうか。 【参考文献】 アラン・ドゥコー著、山方達雄訳『フランス女性の歴史4 目覚める女たち』(1981年、大修館書店) 澁澤瀧彦『サド侯爵の生涯』(2020年、中公文庫) 澁澤瀧彦『サド侯爵の手紙』(1988年、筑摩書房) 講演「結婚、離婚、「みんなのための結婚」 18~21世紀のフランスにおける婚姻形態の変化」(フィリップ・ブトリ、長井伸仁・前田更子訳)
文=中西史子+金原瑞人