サドを取り巻く女性たち──「閣下」と呼ばれた義母、最後通牒をつきつけた妻
連載「『サド侯爵の呪い』をもっと楽しむ稀代の奇書をめぐる翻訳夜話」第1回
『サド侯爵の呪い 伝説の手稿『ソドムの百二十日』がたどった数奇な運命』は、手稿の受難、サド自身の波乱の生涯、投機詐欺という3本の糸がからみあうミステリー小説のようなノンフィクションだ。 ギャラリー:元バスティーユ監獄の下を通る運河も、パリの地下に広がる「闇の都」 写真6点 さまざまなエピソードが盛り込まれており、翻訳中は調べものが多かった。ただおかげで、翻訳書には入りきらない興味深い話がたくさんみつかった。今回、それらをご紹介いただく機会をいただいたので、全3回でお届けしたいと思う。 第1回は、サドを取り巻く女性たちについてお話しさせてください。この本には、貴族の出であるサドの妻や義母から娼婦まで、さまざまな立場の女性が登場する。 まず注目したいのは、サドの妻ルネ=ペラジの母マリー=マドレーヌ・ド・モントルイユ。モントルイユ家でおとなしい夫を差し置いて決定権を持ち、「閣下(プレジデント)」の呼び名で知られていた女性だ。 1768年にサドがアルクイユ事件(物乞いの女性を暴行した事件)を起こしたときには、彼女は平凡な貴族出身の女性には考えられない政治的権力を行使して、サドを監獄行きから救った。一方で、その後サドがその生涯のほとんどを監獄で過ごすことになったのは彼女の差し金だったようだ。 『サド侯爵の呪い』でこの義母のふるまいを読むと、フランス人女性は強い、という印象を持ってしまうが、サドの義母は例外といえるだろう。フランスの社会では女性よりも男性が優遇されていた。女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まったが、女性が投票権を獲得したのは日本と同じ1945年のことだ。1789年のフランス革命では、人間の自由・平等が宣言されたが、封建的な家父長制に支えられた社会において、女性はあくまで男性に従属する存在だった。 実際、ルネ=ペラジは閣下として知られた母とは違い、何があろうと、妻としてサドに献身的に仕えた。結婚してまもなく、サドがルネ=ペラジの妹アンヌ=プロスペルに溺れたことがあった。妹は幼くして修道院に入れられて育ったが、そこは厳格な規律で知られる修道院とは違って、上流家庭の娘が入る花嫁学校のような場所だったそうだ。 サドは初めてモントルイユ家を訪れたその日から、この美しい妹に強く惹かれた。ルネ=ペラジは、サドがマルセイユ事件(娼婦に危険な媚薬を飲ませたとされる)の直後に妹とイタリアを旅していたときでさえ、夫をとがめることはなかったという。ただし、サドのこの裏切りはルネ=ペラジの母マリー=マドレーヌ・ド・モントルイユの逆鱗に触れ、以降、彼女は徹底的にサドを糾弾する側に回るのだが。 ルネ=ペラジはサドの倒錯的な行動に付き合い、彼の罪を隠蔽し、実の母に歯向かった。監獄に収容されてからもサドに寄り添い、手紙でのやりとりを続けている。