韓国の異才、ホン・サンス監督の軽やかで愉しい新境地。映画『WALK UP』
韓国を代表する名匠──と仰々しく呼ぶにはあまりにも軽やかに、独自の映画をマイペースで撮り続ける異能のシネアスト、ホン・サンス監督(1960年生まれ)。このたび日本公開されるのは、監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽をすべて自分で務めた2022年の長編第28作となる『WALK UP』だ。
お洒落な4階建てのアパートメントでフロアを上がるごとに人生が変わる!? 最高傑作との声も飛び交うホン・サンス監督の新作
第70回サン・セバスチャン国際映画祭にてワールドプレミア上映され、第47回トロント国際映画祭、第60回ニューヨーク映画祭などで好評を博し、ロサンゼルス・タイムズには「ホン・サンス監督の最高傑作」とのレビューが出たが、しかしこれは決して“最新作”ではない。第74回ベルリン国際映画祭では、フランスの大物俳優イザベル・ユペールとの3度目のタッグ作『A Traveler’s Needs』(2024年)で銀熊賞(審査員大賞)を受賞。すでに長編第29作~第31作に当たる『In Water』(2023年)、『In Our Day』(2023年)、『A Traveler’s Needs』の日本公開も2025年以降に控えている。つまり“常に新作在庫あり“の状態が途切れず続いているのだ。単なる多作を超え、もはや呼吸するように映画を撮っているのか?と思えるほど。 しかも粗製濫造どころか、ひとつひとつの実験や試みがいつしか次の昇華や新たな達成につながるという、理想的なサイクルで“ホン・サンス・ユニバース”が紡がれてゆく。その中でも『WALK UP』は、特に旨味が97分の尺にぎゅっと詰まった彼のベスト・オブ・ベスト、極上級の一本だ。 今回はまず舞台装置が面白い。ホン・サンス自身の撮影による簡素かつ美しいモノクローム映像で画面に映し出されるのは、都会の一角に佇む小さなアパートメントの中と玄関前だけ。お洒落に設計・装飾されたこのビルは地下1階もあり、最上階の4階はいわゆる屋根部屋で、広めのバルコニーが外を一望できる屋上として設けられている。そんな縦の限定空間を存分に活かしつつ、もはや奇想天外ともシュールともいえる人を喰ったような語り口が駆使される。マジックハウスではないが、ある種の錯覚を利用した室内体験型アトラクションのごとく、なかなかに数奇な人間ドラマが繰り広げられていくのだ。 まずは爪弾くように奏でられるシンプルなギターのテーマ曲(これもホン・サンス本人によるもの)に乗って、主人公の映画監督ビョンス(クォン・ヘヒョ)が、娘のジョンス(パク・ミソ)と共に車でアパートメントに訪れる。ふたりを出迎えるオーナーのヘオク(イ・ヘヨン)は成功したインテリアデザイナーだ。ビョンスは娘とは長らく疎遠で、今回会ったのも5年ぶりだが、もともと美術を専攻していたジョンスがインテリア関係の仕事を志望しているため、旧知のヘオクに話を聞くため引き合わせたという次第である。 ビョンス&ジョンスの父娘は、ヘオクの案内でアパートメントの全体像をざっくり見学する。1階がレストラン、2階が料理教室、3階が賃貸住宅、4階がアトリエ、地下がヘオクの作業場(実質的には休憩室)。まずは1階と地下の部屋で本音と建前が複雑に入り混じった会話劇が展開するが、やがて映画は4つの章へとねじれて伸びていく。らせん階段でアパートメントの階層をひとつ上がるごとに、人生の断面が新たに浮かび上がるという仕掛け。ブルース・リーの死後に発表されたいわく付きの主演作『死亡遊戯』(1978年/監督:ロバート・クローズ)のクライマックスに登場する「五重の塔」ではないが、フロアごとに映画監督ビョンスと彼を取り巻く女性たちの人間模様のステージが良くも悪くも更新され、予測不可能な人生として不安定に移ろっていくのだ。 メインとなるフロアと共にチャプターが切り替わると、一見連続しているように見えて、実は前章から結構長い時間が経過している。しかしどれくらい時間がジャンプしたのかは曖昧なままで、具体的には示されない。ただ我々は「白髪が増えたわね」とか、コロナ禍でワクチン接種の面倒があるといった台詞から推測するしかないのだ。 こういった時系列のトリッキーな操作は『自由が丘で』(2014年)や『正しい日 間違えた日』(2015年)でも試みられていたが、とりわけ三部構成で時間経過が大胆に飛んでいく『イントロダクション』(2021年)の異様なアプローチを延長・洗練させ、ひとつの完成形に仕上げたといった趣だ。