韓国の異才、ホン・サンス監督の軽やかで愉しい新境地。映画『WALK UP』
こうなるとホン・サンス監督の進化/深化そのものが「らせん階段」状だと言いたくなるが、『WALK UP』は紛れもなく新境地を切り開く一方、ある種以前のモードに戻ったように見えるところもある。それは久々に男性の映画監督が主人公の物語を紡いだことだ。クォン・ヘヒョが演じるビョンスは、「ケラケラ笑って床を転がって観る」「台詞が多く、その台詞に嫌みがない」「お酒を飲みながら観るのにぴったり」な作風の映画監督らしいが(劇中でソン・ソンミが演じるソニの台詞より。実際にホン・サンスは自身の映画について「一人でお酒を飲みながら観るのに適している」と言われたことがあるらしい)、一方でずっと準備していた企画がスポンサーから出資を断られて頓挫してしまい、やがて長らく新作が撮れない状態に陥っていく。これはまるで、もし従来的な商業映画のシステムの中で自分が撮り続けていたら──という“マルチバースのホン・サンス”のように捉える観客も多いのではなかろうか。 ある時期までのホン・サンスは、自身をパロディ化したような「最近スランプの映画監督」をよく主人公として採用していた。『浜辺の女』(2006年)とか『よく知りもしないくせに』(2009年)とか『ハハハ』(2010年)とか『教授とわたし、そして映画』(2010年)とか『次の朝は他人』(2011年)など。だがイザベル・ユベール主演の『3人のアンヌ』(2012年)や、あるいは『ヘウォンの恋愛日記』(2013年)や『ソニはご機嫌ななめ』(2013年)辺りから、男性原理から距離を取ろうとするホン・サンスの姿勢が認められるようになった。『逃げた女』(2020年)でクォン・ヘヒョが演じた「先生」はほとんど居場所がなかったし、『小説家の映画』(2022年)でも女性同士のシスターフッドにこそ映画作りが託される。それだけに『WALK UP』で久々に以前の図式に立ち戻ったのは興味深いし、しかもクォン・ヘヒョが映画監督を演じるパターンでは初めて。これはまさに「らせん階段」状の新たなターニングポイントかもしれない!? 公私ともに迷走中の映画監督が抱える煩悩と憂鬱、そして4人の女性たちが織り成す人生の流動。構成は起承転結といったニュアンスもあるが、最終的には不思議な円環を描くもの。特に第3章と第4章は爆笑をもたらすほど驚きの展開が待ち構えている。例えば3階の窓際に飾られたイタリアのアルト・サックス奏者、ファウスト・パペッティ(1923年生~1999年没)のヴァイナルレコード『21a Raccolta』など、さりげない小物や細部にもご注目いただきたい。 キャストは特異な撮影手法に慣れ親しんだホン・サンス監督作品の常連俳優たちが集まった。主人公の映画監督ビョンスに扮するクォン・ヘヒョは、『WALK UP』 で9本目のホン・サンス組(2024年の『A Traveler’s Needs』で計10本になる)。ご存じ、日本でも空前の大ブームを巻き起こしたドラマ『冬のソナタ』(2002年)のキム次長役をはじめ、Netflixドラマ『寄生獣―ザ・グレイー』(2024年)のキム・チョルミン刑事役などでも活躍。本作は『それから』(2017年)以来のホン・サンス映画の単独主演作となった。そして彼を取り巻く女性たちには、『あなたの顔の前に』(2021年)と『小説家の映画』で主演を務めた名優イ・ヘヨン。『夜の浜辺でひとり』(2017年)や『逃げた女』(2020年)などのソン・ソンミ。『それから』や『小説家の映画』などのチョ・ユニ(私生活ではクォン・ヘヒョのパートナーである)。そして『イントロダクション』以降の常連となった若手のパク・ミソが主人公の娘ジョンス役を演じている。