マンガ『どくだみの花咲くころ』の清水くんと信楽くんに村上隆の芸術論を思う
アール・ブリュットとマンガ『どくだみの花咲くころ』
城戸志保さんの『どくだみの花咲くころ』というマンガを読んだ。Amazonのレコメンド機能で目について、表紙に胸がざわめくものがあり買ってみたのだけど、なんというか、芸術とそれに魅了される人間の、ある種の核心をつくような凄みがあり圧倒されてしまった。 公式の作品紹介はこうだ。 癇癪持ちで予測不能な動きをする信楽はクラスでも浮いた存在。 なんでもソツなくこなす優等生の清水は図工の時間に盗み見た彼の紙粘土の作品に心を奪われる。 この日をきっかけに遠くから信楽の観察をはじめることに。 ある日、清水は偶然近所の空き地に信楽が入っていく姿を見つける。 彼が帰ったあと、こっそりその場所にいくとそこには独創的な形の草人形があった──。 優等生と問題児の不穏で愉快な友情物語開幕! ”友情”と言っていいのかなこれは……と1巻を読み終えたばかりの私は戸惑うが、まあだいたいこんな話。でもこの「優等生」と「問題児」という定型的なラベリングが、そもそもミスリードだというところが本作の面白さのひとつだろう。 信楽くん(主要登場人物はみんな陶芸の産地の名前である)は、確かに多くの人から見ると不規則な行動が多く、おそらくなんらかの発達特性があるように見える……が、そのように彼をまなざす「視線」をひっくり返す驚きが1話で早々に展開される。平たくいうと、優等生を自認し、多くの読者が視線を重ねるよう誘導される清水くんのほうが、むしろ「様子がおかしい」のではないかという転倒が起こるのだ。 なんで様子がおかしいのかというと、信楽くんが作る「アート」(だと清水くんは明確に定義する)に、心底心酔し没頭してしまったからだ。清水くんは信楽くんの作品世界に魅了され、その創作が進むよう頼まれてもいないのにあれこれ手を尽くし、その作品たちがいったいなんなのかを自らの全身・全知性・全感性を総動員して理解せんと身を焦がす。その独り相撲っぷりがおかしくて最高なのだが、おそらく信楽くんにもちょっとは何か伝わっているんじゃないかな……という感じ。 作者のインタビューを読むと、「高校生くらいの頃からアール・ブリュットと呼ばれる作品を好きになることが多く」「私が感じたアール・ブリュットの面白さと言いますか、“そういう人”を描きたいなと思っていた」と制作の動機について語られていて、なるほどと納得する。アール・ブリュットの定義の難しさについても言及されていて、そういう「視線」や「定義」の曖昧さ、困難さに自覚的であることも作品に表れている。 なにより、創造力とものを作る人の圧倒的な熱量、それを見る人の羨望、宗教的な信仰心……そういうものが、この小学5年生たちからビシバシと伝わってくる。 ちょうど本作を読んだ日の昼間に、村上隆さんが出演したYouTubeを見ていて、村上さんが芸術の感動について語った言葉が印象に残っていた。そしてその言葉が、まさに清水くんの「感動」に重なった。 … 「私もじつは愚かしい人間であるということを理解したときに人って感動すると思うんですね。やっぱり人は自分が素晴らしいものだって思うときには感動できないと思うんです。自分がどれだけ愚かな存在かというときにこそ、やっぱり人間は感動というか、度し難い自分の存在に落胆するのか、気がつくのか。それが芸術の感動であるがゆえに…」(村上隆) 人はなぜ芸術に感動するのか。その答えは人それぞれだけど、このマンガはその真に迫るかもしれない。続きが気になりすぎて、目をかっぴらいた清水くんみたいな顔をしながら2巻を待っている。
福島夏子(編集部)