坂東巳之助さん演じる円融天皇と本郷奏多さん演じる花山天皇は…オジとオイ?複雑すぎる『光る君へ』前後の天皇と藤原氏の関係を日本史学者が整理
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。いよいよ2024年1月7日から放送が始まりました。しかし「藤原の名前多すぎ!」などと、さっそくネット上にはその複雑な人間関係についての感想があがっているようです。そこで2回にわたり、日本史学者の榎村寛之さんに当時の天皇と藤原氏の”複雑すぎる”関係について整理してもらいました。 【図】『光る君へ』登場天皇の系図 * * * * * * * ◆円融天皇と花山天皇 『光る君へ』ではここまで、円融(えんゆう)天皇(即位前は守平親王。演:坂東巳之助さん)、東宮は師貞(もろさだ)親王(のちの花山《かざん》天皇。演:幼少時は伊藤駿太さん。成長後は本郷奏多さん)という二人の天皇が登場した。 しかし、この2人、とても親子には見えなかった。じつは師貞親王は皇太子ではなく、円融天皇の兄、冷泉天皇(憲平《のりひら》親王)の長男、つまり、オジ・オイの関係になる。 そして紫式部の時代の天皇は円融天皇の子の一条天皇(懐仁《やすひと》親王)、皇太子は花山天皇の弟、居貞《おきさだ》親王(三条天皇)である。 三条天皇は冷泉天皇の次男、花山天皇の異母弟で、一条天皇の年上の東宮となっていた。 つまり皇太子ならぬ皇太従兄というややこしい存在だった。要するに天皇家が分裂していたのである。
◆ポスト村上天皇を巡る混迷 この不思議な関係を理解するには、村上天皇の時代にまでさかのぼらなければならない。 村上天皇は康保(こうほう)4年(967)に在位のままで急死し、皇位は皇太子だった第2皇子の憲平親王に移った。しかし彼はその天皇交替の時期にほとんど積極的に動いていた形跡がなく、ほとんどの公務や儀式を欠席している。 じつは冷泉天皇は体が弱い上に精神的にも疾患があったようなのである。そのためとても長期政権を保てそうではなく、即位とともに皇太弟として同母弟の守平親王(円融天皇)が立てられ、わずか2年で譲位となった。皇太子は即位の翌年に生まれた冷泉の長男、師貞親王である。ここから混迷が始まる。 冷泉天皇、円融天皇の間には為平(ためひら)親王がいた。3人の母は藤原氏直系の北家右大臣(ほっけうだいじん)藤原師輔の娘、中宮(ちゅうぐう)藤原安子(やすこ)である。 冷泉には同じ年の生まれの兄の広平(ひろひら)親王がいたが、その母は藤原南家の大納言藤原元方(もとかた)の娘の女御祐姫(にょうごすけひめ)で、バックは比べものにならなかった。 のちに、冷泉の精神的不安定は元方と祐姫の怨霊の仕業とされ、2人の怨霊は大変恐れられたと伝わるが、その理解は果たして正しいのか、私は疑問を持っている。 そもそも冷泉の異常性は皇太子時代から知られていた。ならば天皇の器ではないとして廃嫡(はいちゃく)すればいい。廃皇太子はいくらでも前例がある。同母弟には為平親王がおり、いくらでも代わりができたはずなのである。
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