坂東巳之助さん演じる円融天皇と本郷奏多さん演じる花山天皇は…オジとオイ?複雑すぎる『光る君へ』前後の天皇と藤原氏の関係を日本史学者が整理
◆村上天皇の意図と摂関家の内部対立 なぜ冷泉は強引に即位させられたのか。思うに、そこには村上天皇の意図と摂関家の内部対立とが関わっている。 冷泉天皇(憲平親王)は政務に耐えないので村上天皇の時代には置かれなかった関白が復活し、準摂政的な役割を兼ねた。その地位についたのは師輔の兄、藤原実頼(さねより)である。 しかし実頼は藤氏長者(とうしのちょうじゃ。藤原氏のトップのこと)だったものの、天皇の外戚(がいせき)ではないので、実際に政界を動かしていたのは中年で没した師輔の子供たち、伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ。演:段田安則さん)だった。 また憲平親王が立太子した天暦(てんりゃく)4年(950)には、醍醐(だいご)天皇の皇后だった太皇太后(たいこうたいごう)藤原穏子(やすこ。実頼、師輔の叔母)が健在で、村上王権の中で大きな存在となっていた。彼らは皇太子の交替より精神に問題のある天皇を即位させることを選んだのである。 じつは冷泉には皇太子時代に2人の中宮候補が入内(じゅだい)していた。村上天皇の同母兄、朱雀(すざく)天皇の一人娘の昌子内親王(まさこないしんのう)と、伊尹の娘藤原懐子(ちかこ)である。 この昌子内親王は朱雀天皇とその兄だった皇太子保明(やすあきら)親王、つまり醍醐天皇の長男の忘れ形見の熙子(ひろこ)女王を母としている。 彼女は醍醐天皇の血統では最も血筋の正しい皇族だと言える。それを新天皇に嫁がせて醍醐・朱雀・村上の血統を合一させた皇子をもうけ、天皇にして醍醐天皇嫡系の新たな天皇血統を作りたいというのが村上の意図だったと考えられる。
◆伊尹という奇妙な名前の由来 一方、藤原懐子の父の伊尹は師輔の長男である。翌年生まれの同母弟に兼通がいるが、師輔は伊尹に大きく期待を寄せていたと思われる。 と言うのも、伊尹という奇妙な名前が、中国古代殷(商)の時代の伝説的な賢臣の伊尹に由来しているからである。 伊尹は暴君の太甲(たいこう)を3年間追放して政治を取り(摂政という言葉はこれに由来する)、のちに反省した太甲を迎え入れて名君に育て上げたという伝説的な名政治家である。 ならば「伊尹」の名は政治家としては期待できない可能性がある冷泉の摂政たれという期待があったのではないかと思われる。伊尹は元服した時点で、摂政になるべき男とされていた。つまりどちらに皇子が産まれても、村上嫡流の次代の天皇になれる体制はすでに作られていたのである。 そして安和(あんな)元年(968)に懐子が男子、師貞親王を産んだ。この時点で冷泉天皇の嫡系は摂関家系として確保され、冷泉は、いわば用済みとなった。
榎村寛之
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