「樹の枝に見えたのは兵士たちの……」米軍の砲弾炸裂後に広がった地獄の光景 #戦争の記憶
約20万トンの銃砲弾・爆弾が撃ち込まれ降り注ぐさまは「鉄の暴風」と形容され、米軍の戦史にも「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる戦闘がいまから79年前、沖縄であった。 【写真を見る】「ありったけの地獄を集めた」といわれる激戦地沖縄で、米軍から陣地奪還を果たした「24歳の指揮官」 1945年5月、棚原(たなばる)。友軍進出の兆しもない中、敵軍に取り囲まれ孤立状態に陥っていた第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いた伊東孝一(当時24)は、尋常でない炸裂音を轟かす砲弾を浴びたのち、「地獄の光景」を目の当たりにしている。 ※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第1回です】
最も信頼する中隊長の戦死
赤い大きな夕陽が西の海に沈むまで、実に長く感じる。夜のとばりが下りて緊張から解放された途端、疲れがどっと出て、立ち上がる気力も失せてしまった。暗がりを利用して、各隊から戦況報告の伝令がくる。どの隊もかなりの損害を出しているようだ。 中でも、第2中隊の報告に全身の力が抜けてしまった。 「中隊長殿戦死、中隊残員2名、大滝小隊は昨夜、敵中に突入したまま行方不明」 大山が死んだ――。最も信頼する中隊長の大山昇一中尉が死んだ。気落ちした態度を見せては全般の士気に影響する。努めて冷静さを保とうとしたが、落胆を隠すことができなくなっていた。 この時、独立機関銃中隊を率いる倉田貫一中尉が連絡にきた。前後して、行方不明だった大滝少尉が、19名に減った部下を引き連れて戻ってくる。この小隊を倉田中尉に預けることにした。 「大滝小隊を、どう使えばいいのでしょうか」 倉田中尉から、唐突な命令への疑問が出た。 「どうとでも君の思うようにやれ」 投げやりな答えを返すのみ。 それが、絶望的な状況を悟らせたのか、二人とも悲愴な面持ちになってしまった。
頭を撃たれた兵士の呻き声
明ければ6日、再び東の空が白んでくる。状況に何の変化もなく、友軍進出の兆しもない。やはり駄目だったか。 これで大隊は、完全に敵の重囲下に孤立した。 「四面楚歌か……」 重苦しい実感が胸に迫ってくる。 そして、燃えるような南国の太陽が昇ると、敵の熾烈な砲撃が始まった。すぐ右前にいる有線の通信兵が頭部を撃たれて、1時間も呻き声を上げ続けている。 「ウウン、ウ、ウウ」 数メートルしか離れていないが、誰も助けに行くことができない。タコツボを出たら一巻の終わりだからだ。 そんな折、倉田中尉と配下の部下たちは右手数十メートルのところにある野戦陣地にこもり、頑強に抵抗を続けていた。擲弾機から発射された手榴弾が飛んでくると投げ返し、こちらからは重機関銃を敵兵に見舞っている。