「性愛」、「恋愛」、「友愛」、「親子愛」は、まったく違う情念にもかかわらず、なぜどれも「愛」と呼ばれているのか
哲学者の苫野一徳さんの著作『愛』は、苫野さんが躁鬱病に苦しみ続けた日々をきっかけに生まれた、「愛」の本質を解明する一冊です。 【前編】躁鬱病に苦しむ若き哲学者が「人類愛教」の教祖になり、崩壊し、始めたこと なぜ苫野さんは「愛」について考えるに至ったのか。構想20年、執筆に2年半をかけた本作が生まれるまでについて、刊行当時(2019年)に苫野さんが綴った文章を公開します。(後編) 【前編 「躁鬱病に苦しんでいた若き日本人哲学者が、ある日突然「人類愛教」の教祖になり、崩壊し、それから始めたこと」】
ほとんどの哲学者が「愛」の解明に失敗した理由
拙著『愛』において、わたしはこの問いを徹底的に明らかにし得たと確信している。しかしそこに至るまでの道は、きわめて困難なものだった。 言うまでもなく、「愛」は哲学史上最も重要なテーマの1つである。多くの哲学者たちが、これまで「愛」の本質解明に挑んできた。 しかしわたしの考えでは、彼らの試みはそのほとんどが失敗している。 その最大の理由は、「愛」がきわめて「理念性」の高い概念であることにある。 単なる「好き」や「性欲」などの一般的な情念は、向こうから「やって来る」もの、あるいは内から「湧き上がって来る」ものである。わたしたちはそれを、ありありとこの胸で味わうことができる。 それに対して、愛は、一度わたしたちの理性を通して吟味されずにはいられない、きわめて「理念性」の高い概念である。つまり愛は、情念であると同時に1つの理念でもあるのだ。 愛の「理念性」、それはちょうど、「美」が「きれい」「心地よい」といった感性的な概念を超えた、理念性を帯びた概念であるのと同様である。 「きれい」や「心地よい」は、肉感的に、五感全体を通してわたしたちに感じられるものである。「きれいな人」や「心地よいソファ」は、わたしたちの感官に快感を与え、ただ楽しませてくれるだけのものにすぎない。 それに対して、「美しい人」や「美しい家具」といった表現には、ただの快以上のものが含意されている。「正しさ」「よさ」「完全さ」といった、何らかの価値理念が表現されているのだ。 同様に、わたしたちは「愛」という言葉に何らかの価値理念を感じ取っている。単なる「好き」や「性欲」とは違って、愛には何か「正しいあり方」のようなものがあるのではないかと、つねにどこかで考えているのだ。