「性愛」、「恋愛」、「友愛」、「親子愛」は、まったく違う情念にもかかわらず、なぜどれも「愛」と呼ばれているのか
現実にはありもしない「愛」のイメージ
それゆえ、一言で「愛」と言った時、わたしたちは、神の愛のような理想理念や、あるいはわたしの「人類愛」のような、世界の一切の矛盾や苦悩を克服しうる絶対調和の理念などをイメージすることがある。 実際、キリスト教の影響を受けた西洋哲学者たちのほとんどは、「愛」をそのような何らかの理想理念として描き出し、そのいわば現実の姿を解明することに失敗してきたようにわたしには思われる。 カントが言ったように、わたしたちの理性は究極を推論せずにはいられない本性を持っている。世界の始まりはあるのかないのか。その究極原因を、わたしたちは推論せずにはいられない。神はいるのか、いないのか。 わたしたちの理性は、こうした世界の根本原因を推論せずにはいられない。そしてそれゆえにこそ、神や世界の始まりなどについて、決して確かめることのできない形而上学的な世界像を思い描くことになるのだ。 「愛」も同様である。「愛」の概念をわたしたちが獲得して以来、わたしたちの理性は、その究極の姿を推論せずにはいられなかった。そうしていつしか、現実にはありもしない究極的な「愛」のイメージを、さまざまな仕方で思い描くようになったのだ。 しかし愛の本質を正しく捉えるためには、わたしたちは愛の理想理念に思いをいたすのではなく、この現実の世界、現実の生活において、「このわたし」に確かに味わわれている愛の体験、その理念的情念の本質をこそ洞察しなければならない。そしてその普遍性を、広く問い合わなければならないはずなのだ。
性愛、恋愛、友愛、親子愛…なぜ、どれも「愛」?
本書でわたしは、この「愛」の「理念性」の本質を明らかにした。性愛、恋愛、友愛、親の子に対する愛……。愛にはさまざまな形があるが、これらはいずれも、本来まったく異なったイメージを与えるものである。にもかかわらず、なぜこれらは「愛」の名で呼ばれうるのか? それは、そこに「愛」のある「理念性」の本質が通奏低音のように響いているからである。性愛も恋愛も友愛も親の子に対する愛も、その「愛」の通奏低音の上に、それぞれ独自の音色を響かせているのだ。 あるいはこうも言える。エロティシズム、恋、友情、親の子に対する愛着……。これらは、互いにまったく異なる情念である。 しかし、これらが「愛」の「理念性」の本質を帯びた情念へと育て上げられた時、わたしたちはそれを、性愛、恋愛、友愛、そして親の子に対する愛と呼ぶことになるのだと。本書の目的は、これら「愛」の名のもとに包摂されるありとあらゆる「愛」の本質を明らかにすることにある。 その過程で、わたしは、わたしの「人類愛」がいったい何だったのかについても、明らかにすることができるであろう。さらにわたしたちは、「愛」の本質が明らかにされた時、ではそれはいかに可能かもまた、力強く明らかにすることができるようになる。 「愛」とは何か、そしてそれはいかに可能か? これが、本書でわたしが挑み、そして明らかにした問いである。 *
苫野 一徳(熊本大学教育学部准教授)