あの「10・8」決戦から30年 伝説の一戦が生まれたドラゴンズ激動の1994年とは
左腕を包帯でつるした立浪和義、大粒の涙を流した今中慎二
◇長期連載「実録 竜戦士たちの10・8」 巨人の長嶋茂雄監督が宙に舞い、中日ナイン、D党の涙がナゴヤ球場をぬらした1994年の10月8日から数えて、きょうで30年目を迎えた。中日と巨人が勝ち数、勝率で並び、シーズン最終戦に優勝を懸けて激突した「10・8」決戦。今や伝説となった一戦は、どのようにして生まれ、なぜ竜戦士は敗れたのか。FA制度の導入による主砲流出。指揮官の去就問題…。あの「10・8」につながる激動の一年を、長期連載で振り返りながら探っていく。 重苦しい沈黙が続いていた。祝勝会も“お流れ”となった試合後、「帰りの方向が同じだから」とチケットを渡され、一台のタクシーに乗り込んだのが立浪和義と今中慎二だった。 「お互い、何を言っていいのか分からない。交わした会話といえば『お疲れさん』ぐらいじゃなかったですかね」と立浪が振り返る。 肩を固定するように、立浪の左腕は真っ白い包帯でつるされていた。3点を追う8回。先頭打者で三塁へボテボテのゴロを打ち、頭から一塁へ飛び込んだ際に脱臼したものだ。 「一塁へのヘッドスライディングなんて、野球をやって初めて。子どもの頃から『やるな』と教えられてきたし、僕もそう言ってきたので」
高木監督夫人の笑顔が記者のひと言で消えた
敗戦の責任を背負い込み、ベンチ裏で大粒の涙を流したのは今中だった。いつもクールな若き左腕が人目をはばからず、感情をあらわにするのも珍しいことだった。 「2回に落合(博満)さんに打たれた本塁打は甘い球だったし、それほどショックはなかった。でも、その後(3回)のどん詰まりのタイムリー。あれが全て。厳しく内角にいって、打ち取った当たり。それが…。あれで頭の中が真っ白。その後のことは覚えていない」 序盤から点を取りあった試合は槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄とローテ三本柱のリレーで一度もリードを許さなかった巨人が6―3で勝ち、竜戦士は敗れた。 駐車場には、高木守道監督を迎えに来た奈津子夫人の姿もあった。 「3年間、お世話になりました」。いつもの穏やかな笑みを浮かべ、こう言う夫人の顔色が変わったのは、私が「監督は来年もやると思いますよ」と話を向けた時のことだ。 「結構です。その話はもうやめてください」。その口調には、こちらが二の句を告げぬほどの毅然(きぜん)とした響きがあった。優勝争いを繰り広げながら、一方では去就問題…。そんな高木の苦悩と葛藤を最も間近で見てきた夫人の本音だったに違いない。 立浪のヘッドスライディング。本拠地では、このカードで4年間負けなしの11連勝を続けてきた今中のKO劇。マウンド付近では昨年まで竜の一員だった落合が、試合中に痛めた左脚を引きずるようにして長嶋監督に歩み寄り、抱き合っていた。 普通ならやるはずのないことをやり、起こり得ないことが起きたのも、それが「10・8」だったからだろう。単なる3時間14分の一試合では語れない何かが、この試合にはあった。
「10・8」当時のドラ番キャップ
長嶋・巨人が勝者となり高木・中日が敗者となった歴史的大一番。実はこの瞬間に向け、時計の針は一年前からコツコツと動き始めていたのだ。=敬称略 ▼館林誠(たてばやし・まこと) 1959年6月16日生まれ、兵庫県出身。スポーツ記者として主にプロ野球を担当。91年から2000年まで中日スポーツでドラゴンズを担当し、94年の「10・8」当時はドラ番キャップ。
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