鈴木誠也、清宮、オコエらスターが駆け抜ける、時代を彩った名将が去る……東京の高校野球は新時代に【東西東京大会50周年物語・最終回】
6月15日、第106回全国高等学校野球選手権東西東京大会の抽選会が行われた。今年は東西に分かれて50周年という節目の1年になる。最終回では平成後期から令和に入っての出来事を振り返っていく。東京の高校野球は大きな変わり目を迎えている。(文中敬称略) 【動画】高校時代のオコエ瑠偉に迫るインタビュー映像
帝京と日大三の強さが際立った00年代
東京都高校野球連盟のホームページでは、2005年以降の大会の結果を検索することができるので、ここからは、駆け足で流れを記したい。 07年の東東京大会は、中村晃が主将となった帝京が優勝。甲子園でも準々決勝に進出したが、優勝した佐賀北に延長13回の熱戦の末、敗れた。西東京大会は決勝戦で八王子を破った創価が優勝した。 08年の東東京大会は、関東一がセンバツに続けて甲子園大会出場を決めた。00年に監督に就任した米澤貴光にとって、監督としての初優勝になる。西東京大会は日大鶴ケ丘が18年ぶりの優勝を決めた。97年に監督に就任した萩生田博美監督になって初の甲子園であった。 09年の東東京大会は決勝戦で都立雪谷を24―1で破った帝京が優勝。甲子園では準々決勝まで勝ち進んだ。西東京大会は、決勝戦で日大二を19―2で破った日大三が優勝した。 この時期、東京では帝京と日大三の強さが際立っていた。翌年のセンバツには帝京と日大三が出場。日大三が準優勝で、帝京が準々決勝に進出した。夏もこの両校が優勝候補であったが、エースの山崎康晃(現横浜DeNA)擁する帝京は5回戦で国士舘に6-14で敗れ、エースの山崎福也(現日本ハム)を擁する日大三は準決勝で日大鶴ケ丘に延長14回、5-6で敗れた。 東東京大会は関東一、西東京大会は早稲田実が優勝した。甲子園で両校は3回戦で対戦し、10―6で関東一が勝った。
日大三が自慢の強打で再び全国制覇、西東京の加盟校が減少
東日本大震災があった11年、春季大会の1次予選が行われなかったこともあり、夏の大会ではシード校制度を採用しなかった。それでも東東京大会は帝京、西東京大会は日大三という東西の両雄が優勝した。 帝京は2回戦の八幡商戦で、9回表に逆転満塁本塁打を打たれ敗れた。帝京はこの夏以来、甲子園から遠ざかっている。20年にコロナ下で開催された独自大会の東東京大会で優勝し、昨年の春季都大会で優勝するなど甲子園がそう遠くないところにいるだけに、名門復活が待たれる。 日大三は準決勝で関西を14―4、決勝戦でも光星学院(現八戸学院光星)を11―0と圧倒して全国制覇を果たした。それでも西東京大会の決勝戦では、早稲田実に2-1と苦しめられた。 全国の参加校数は、90年の第72回大会で初めて4000校を超えたが、12年には4000校を下回った。そしてこの年から部員不足による連合チーム結成が認められるようになった。 12年は、東東京大会では二松学舎大附のエース・鈴木誠也(現カブス)が注目されていたが、準々決勝で成立学園に敗れた。成立学園は決勝戦では国士舘を破り、初優勝を果たした。甲子園では東海大甲府と対戦し、1時間16分という試合時間の短い試合で0-3で敗れている。 西東京大会では、桜美林大を経てロッテにドラフト1位指名される都立日野の佐々木千隼が注目されていた。佐々木は3回戦で早稲田実を延長13回の熱闘で破り存在感を示した。日野は準々決勝で日大三に敗れた。決勝戦に進んだ日大三は佼成学園に苦しめられたが、2-1で逆転勝ちした。連覇のかかった甲子園で日大三は、1回戦で聖光学院に1-2で敗れている。 なおこの年の加盟校は、東東京が152校、西東京が121校と格差が広がった。多摩ニュータウンの開発から半世紀近くが経ち、都立校の統廃合が進んだ。その一方で東京の開発の中心は、80年代のバブル期以降、東のベイエリアに移った。少子化が進む中、女子校の共学化も進んだ。そうした学校には、松蔭大松蔭のように西東京の学校もあるが、共栄学園、上野学園、東京成徳大高、淑徳など東東京の学校が多い。そうしたこともあって、東東京の学校が多くなった。この年の12月、区割り変更が行われ、中野区が東東京になり、世田谷区が西東京に戻った。この時点で東東京が140校、西東京が132校になった。