鈴木誠也、清宮、オコエらスターが駆け抜ける、時代を彩った名将が去る……東京の高校野球は新時代に【東西東京大会50周年物語・最終回】
“平成生まれ”の監督が初戴冠、東京五輪の余波…
18年は第100回大会となったが、東東京は二松学舎大附が決勝に進出した都立小山台を破り2年連続で優勝した。西東京大会の決勝戦は日大三と日大鶴ケ丘が対戦。4番・大塚晃平のサヨナラ本塁打で日大三が優勝した。優勝した日大三は、甲子園でも準決勝まで勝ち進んでいる。 19年の東東京大会は、関東一が2年連続で決勝戦まで勝ち進んだ小山台を破り優勝した。関東一は甲子園大会で準々決勝まで勝ち進んだが、優勝した履正社に敗れた。西東京大会は國學院久我山が決勝戦で創価を破り優勝した。國學院久我山の尾崎直輝監督は90年生まれ。東京では初めての平成生まれの監督の優勝だった。 20年はコロナ感染拡大のため大会は中止。独自大会が行われ、東東京大会は帝京が優勝し、西東京大会は東海大菅生が優勝した。また東西決勝戦も行われ、東海大菅生が逆転サヨナラで勝ち優勝した。 東京五輪が開催された21年は、大会後半から神宮球場が使用できなくなり、東西東京大会の準決勝と決勝は東京ドームで行われた。東東京大会は決勝戦で関東一を破った二松学舎大附が優勝し、西東京大会では國學院久我山を破った東海大菅生が優勝した。 まだ記憶に新しい22年は、東東京大会は二松学舎大附が、西東京大会は日大三が優勝した。波乱が続いた23年は、東東京大会は共栄学園が初優勝を果たし、西東京大会は2年連続で日大三が優勝した。共栄学園としては、一つ大きな壁を越えたことは間違いないが、伝統を築いていくのは、これからだ。
相次ぐ名将の勇退…東京の高校野球は新時代に
昨年は、日大三の小倉全由監督、桜美林の片桐幸宏監督、日大二の田中吉樹監督らベテラン監督が相次いで勇退した。 監督に定年はない。ただ教員の定年を65歳としている学校が多く、監督勇退の要因になっている。小倉前監督は、東京が一代表時代に入学し、2年生から東西東京大会になった。1学年下の桜美林の片桐前監督と日大二の田中前監督は、金属バットが導入され、東西東京大会が始まった年に入学し、3年生の夏に西東京大会の決勝戦で対戦した。50年というのは、そういう歳月である。 50年前、多摩ニュータウンはまだ新しく、広場は子供たちであふれていた。夏になるとしばしば光化学スモッグ注意報が発令され、公害が深刻な問題になっていた。最初の東東京代表である城西大城西が自らを「ヘドロ打線」と呼んでいたように、河川の汚れはひどかった。今日では、公害は当時ほどではないものの、夏の暑さが、外で活動するのが危険なレベルになっている。 50年前は夜になれば、ほとんどが巨人戦であったが、地上波でプロ野球中継があり、学校や職場の話題に中心に野球があった。荒木大輔が早稲田実の2年生だった81年に朝日放送系で『熱闘甲子園』が始まった。今日ではコカ・コーラの一社提供になっているが、当初は松下電器(パナソニック)だった。当時は各家庭にビデオが普及し始めた時代であり、平日の昼間も試合が行われる高校野球は、ビデオを売り込む、最高のコンテンツでもあった。 今日では野球を取り巻く状況は厳しくなっている。それでも、大谷翔平の活躍などで野球人気が高まりつつある。ドジャースとの大型契約は、ものすごく夢のある話だ。けれども、底辺がしっかりしてこその頂点の輝きである。日本野球の草の根の部分を支えているのは高校野球の地方大会である。東西の東京大会は、ローカルとしての東京を感じさせるものだ。これからの50年、東西東京大会ではどんなドラマが展開し、どんな選手や指導者を輩出するか。その歩みは、東京の歴史そのものになるはずだ。 《了》