「城の概念を変えたのは信長」…築城した武将の視点で語り尽す異色書籍『武将、城を建てる』の魅力
信長を境に「城」の概念が変わった
「城」が人気だ。ブームと呼ばれたこともあったが、毎年横浜で開かれている『お城EXPO』には2万人近いファンが参加するなど、根強い人気となっている。城に関する書籍も多数出版されているが、その多くは城郭の構造を中心に解説したもので、なかなか初心者には親しみにくいものだ。歴史作家の河合敦氏がこのたび上梓した『武将、城を建てる』(ポプラ新書)は、城を築いた「武将」の視点から城の魅力について解説するという、これまでになかったアプローチの「城」の書籍だ。武将たちはどういった思いで城を築いたのか。築城名人と呼ばれる武将はどんな武将だったのか。河合氏に聞いた。 【こんな武将も登場】明智光秀、黒田官兵衛、山本勘助も登場『武将、城を建てる』 弥生時代の「環濠集落(かんごうしゅうらく)」のように、昔から自分たちの生活の場を守る目的で「城」のようなものは存在した。古代にも大宰府の水城や山城(朝鮮式)があり、防備にすぐれた武士の館もある意味、城と言えた。南北朝の動乱期には各地に多くの山城が築かれ、戦国時代になると、各大名が領国内に多くの城郭を築いた。だが、戦国時代後期にそれまでの「城」の概念を大きく変えた人物がいた。織田信長だ。『織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)』と呼ばれる信長に始まり秀吉に受け継がれた城の特徴は3つあるという。 「1つ目は総石垣作りといわれた安土城に象徴されるように石垣がすごく立派になった。2つ目は建物を建てる時にそれまでのように掘立て柱ではなく、礎石という大きな石を置いてそれを土台にして柱を立てるようになった。そして3つ目は今まで茅葺(かやぶ)きなどで葺(ふ)かれていた城の建物が瓦葺(かわらぶき)になりました。 一方で、信長が画期的なのは、信長の住む天守や居館を頂点として家臣の屋敷が階層的に配置されていることだと言う先生もいます。いずれにせよ、城の歴史に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう」 ◆秀吉の天下統一で〝信長スタイル〟が全国へ 戦国時代の「城」は地域によってもかなり違っていたそうだ。石垣や瓦屋根がある城は信長の支配地域には多かったが、例えば関東地方の城には石垣はほとんど使用されていない。北条氏の小田原城も「土の城」だったし、徳川家康も初期は石垣の城を持たなかったそうだ。 「しかし、信長の城のスタイルを引き継いだ秀吉に各地の武将たちが臣下に加わるに従って、石垣や天守を備えた城が広まっていった。 本格的な天守を造ったのも信長ですが、彼の時代は本当にそこで生活してるんです。 しかし、戦国時代の終わりぐらいになってくると、そこに住むのは不便なのか、本丸御殿など広くて生活しやすいところに住むようになるなど変わっていきます。 天守も物置や武器庫になっていったり、江戸時代になると必要がないから、火事などで天守が燃えてしまうと再建しない場合もありました。江戸城もそうですよね」 秀吉の時代以降、全国に造られるようになった城は大きく進化を遂げる。 「例えば石垣一つとっても、大きく発達しました。信長の時代にはいっぺんに高く積む技術がなく、段築といって段々にして石垣を築いていました。しかし、やがて高い石垣を築けるようになります。 自然石を積んで、隙間に間詰め石という小さな石を詰めるような『乱積み』という方式から、ちゃんと石を成形して、隙間なく組み合わせるような、『切込接ぎ』というような方式へと代わりました。清正が築いた石垣などは見事な反りと高さがあって、かつ美しいですよね」 ◆江戸時代の城に最も影響を与えた男とは だが、江戸時代になり、天下泰平の世になると新たに大きく進化することもなくなった。城の役割も「守る」ための場所から政務を行う場所としての役割が大きくなっていったようだ。では、城の歴史を語るうえで最も功績のある人物は誰なのだろうか。 「江戸時代の城に一番影響を与えたのは藤堂高虎かなと思います。彼は豊臣秀長とそのお兄さんの秀吉に仕えていて、おそらく秀吉がいろんな城を建てるのを見たり、手伝ったりしながら、技術を磨いていたのだと思います。そんな彼の築城技術をもっとも重用したのは家康でした。 家康が天下を統一する頃から多くの大名に命じて、各地に城を造らせています。天下人の城の設計や築城を中心になって請け負ったのが、藤堂高虎なのです。亀山城、江戸城、駿府城、名古屋城など多くを手がけています。 高虎の城の特徴としては、高い石垣と広い水堀、そして『桝形虎口(ますがたこぐち)』。桝形虎口とは、敵が城門から入ると三方を石垣や強固な門扉に囲まれ上から攻撃されてしまう巧みな構造になった入り口のことです。また、『層塔型天守』を開発したり、『連立式天守』といって大きい天守と小さい天守を組み合わせ、さらに周囲の石垣の上には長屋のような建物(多門櫓)を巡らせるなどして鉄壁の守りを築いています。このような城の技術は以後の基本モデルになりました。いかに高虎の影響が大きいか、分かりますね」 また、加藤清正や加藤嘉明らも、優れた城を築いていた。彼らが築城技術を磨くきっかけとなったのは朝鮮出兵だと河合氏は語る。 「朝鮮で実際に激戦を戦い抜く中でいろんな工夫が出てきて、それがかなり影響しているといわれています。日本の武将たちは朝鮮の南部に『倭城』といわれる城をたくさん造るんですが、彼らが日本に戻ってきた時に、そこで獲得した技術や朝鮮の瓦などを持ち帰って、新しい城に転用したそうです。 とはいえ、朝鮮や明の築城技術を取り入れたのかというと、そうではなかったようなんです。独特の瓦屋根は朝鮮の影響ですが、倭城の特徴的な構造などは、日本各地の武将たちが一堂に会したことで、互いに影響を受けたのではないかといわれています」 ◆〝築城名人〟は何がスゴかったのか それではこういった〝築城名人〟と呼ばれる武将たちは、どのようなところが優れていたのだろうか。 「知識を持っていることと、技術者集団を抱えていることです。高虎は、重臣の中に専門にお城を築くような役割の人がいました。部下の中にそういう人たちを抱えていたことが大きいのではないでしょうか。 加藤清正が築いた熊本城には『飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)』など、家臣の名前がついた櫓があるんです。家臣にそれを築かせていたんですね。ただ、清正は石垣についてかなり細かく指示をしていた記録もあるので、本人もすごく知識があるし、造る人もエキスパートという感じだったのでしょう」 だが、彼らが実際に誰から築城技術を学んだかについてはほとんど記録に残っていないという。おそらく秀吉が築城しているのを見たり、指示されて築城に携わる中で学び、工夫していったと思われる。ちなみに秀吉が築いた城で建物が現存しているものはなく(大阪城は豊臣氏滅亡後に徳川氏が新しく築いたもの)、わずかに肥前・名護屋城の石垣が残るのみだ。 ◆初心者でも分かる!「城」を満喫するポイントとは それでは城の初心者が見ても楽しめるポイントはどういうところなのだろうか。 「とくに勉強しなくても分かりやすいのは石垣ですね。積み方によって時代が推測できたり、高くて反りがあると清正流の積み方、などと分かりやすいです。元々の部分と増改築した部分で積み方が違ったりするのも面白い。残念ながら建物は江戸時代の城も含めてほとんど残っていなくて、天守も12しか現存していないんです。 そういう意味でも当時の様子を一番伝えていて、かつ分かりやすいのは石垣です。 たとえば白河城の石垣は半円弧を描くように築かれている部分(落し積)があり、美しいです。金沢城の石垣は他では見られない多種多様な石垣で、赤色と青色が混ざったカラフルな石垣でも有名。また、発掘・復元した安土城の『大手道』からを階段を上るところの石垣は圧巻です。あとは熊本城。残念ながら今もまだ修復中ですが、石垣の忍び返しの反りは本当すごいと思いますね」 たまにはゆっくりと城を眺めて戦国の武将たちに思いを馳せるのもいいかもしれない。
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