〈クマの殺処分に「かわいそう」の抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること
残念ながら、被災当事者への侮辱を隠そうともしないケースも既にある。意に添わぬ被災者に対し「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごしください」と言い放った者がいた。「能登ウヨ」(ネット右翼=ネトウヨという俗語・侮蔑語から)呼ばわりする者もいた。 これらは「(クマの代わりに)お前が死ね!」と言い放った者と何が違うのか。
社会的解決に向けた課題
クマ殺処分や伐採問題、能登半島地震など数々の事例から見えてくるのは、「困難に直面した現実の当事者」を差し置いて、当事者性・被害者性・発言権を奪おうとする「外部の無責任な理想主義者」に社会がどのように対処すべきなのかという課題である。 無論、現場のミクロ的な視点からだけでは見えない、解決できない課題もある。理想主義の全てを否定する訳ではないし、外部の人間が当事者に一切関わるなというつもりも全くない。 ここで問題になるのは、災害などの緊急時にさえ興味本位や自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派的な主張ばかりが目的の、現場と謙虚に向き合わず、コストも責任もリスクも負う気すら無きまま「当事者」「被害者」になり替わろうとする雄弁な部外者たち、そして、それらを無批判に歓迎し招き入れてしまっている人物や社会だ。 「広く多様な共事者視点を交えた議論」とでも掲げれば「やさしい」「正しい」「知的」「冷静」「いい人」のように振舞えるかも知れない。 それは、救急車の不適切利用にも似ている。消防隊が通報した人を誰も拒まないことは結局、限りあるリソースの奪い合いをもたらす。社会問題の場合、その議題や世論における支持は声の大きいものや数多くの投稿によってときに「事実」や「社会的正しさ(コンプライアンス)」をも凌駕してしまう。 そうしたリソースの奪い合いは非常時であるほど、声をあげる力無き急患や被災者など、最も危機的な弱者に襲い掛かる。たとえばクマ出没問題で命の危機にある被害当事者に、「クマ殺処分反対派も交えて、共に冷静な議論するべきだ」などと迫っても、被害当事者は全く救われない。東京電力福島第一原子力発電所事故の場合、部外者からはデマだらけの「放射線被曝による住民の健康被害」ばかりが声高に叫ばれた一方、それら社会不安の拡散こそが被災者へ健康被害や震災関連死をもたらしたことはほとんど顧みられなかった。 これまで社会問題を巡る議論では、無責任な外部からの干渉を批判すれば「分断を煽る」「排他的・暴力的」と見做され、逆に当事者や被害者の言葉を奪う行為を擁護・正当化することが「やさしさ」「正しさ」のように扱われてきた。それらを喝破し安易な免罪符を与えないことが、今後様々な社会問題の解決に求められる大きな課題と言えよう。
林 智裕