〈クマの殺処分に「かわいそう」の抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること
「やさしさ」が生む分断と社会正義の暴走
こうした「やさしさ」の問題は、様々な社会運動に共通して見られている。身近で分かりやすい例としては、たとえば都市開発やインフラ整備に伴う「樹木の伐採反対運動」も挙げられるだろう。 2024年夏、かねてより燻っていた東京都の明治神宮外苑の再開発をめぐる反対運動が話題になった。東京都知事選でも蓮舫候補が「いったん立ち止まる。都知事選の争点にしている」と主張し、都による環境影響評価や、開発が可能となった都制度の適用過程について「厳格に検証する」と訴えたことで更に注目を集めた。 反対派の主張は「歴史的な景観を守れ」「緑を破壊するな」という感情的訴えが中心であったが、実際の開発計画には新たな植樹や持続可能性を考慮した取り組みが含まれていた。小池百合子候補(現都知事)は蓮舫候補とは対照的に、「争点にならない。なぜなら今立ち止まっているから」と説明。事業主体である民間事業者に樹木保全策の提出を求めているとした。「イチョウ並木が切られるとのイメージがあるが、そうではない。むしろ樹木の本数は増える」とも述べた。 こうした反対運動は、自然保護という「やさしい」大義名分のもと、計画の全体像や将来的な利益、ときに事実さえも無視した感情的な論調に帰結しがちになる。詳細は記事「彼らはなぜ神宮外苑再開発反対のデマに乗ったのか(加藤文宏)」で述べられているが、明治神宮再開発反対運動には、数々のデマも発生していた。 これらの目的は「当事者の為」なのか。そもそも「当事者」とは誰を指すのか。
当事者を無視する〝批判〟
こうした状況は、今年1月に発生した能登半島地震の復興を巡る議論にも見られる。 発災直後から、被災地には遠方からのデマや、それらを基にした身勝手で現実離れした「べき論」がぶつけられた。その一端について、詳しくは能登半島で自らも被災した方自身が以下に綴っている。 『令和6年能登半島地震にかかる風評・流言・誤解の記録検証について~もう一つの「震災被害」を記憶する~』 1.地震直後も道は空いていた、渋滞は嘘だ 2.被災地への救助部隊派遣が遅いし少なすぎる、政府の怠慢だ 3.石川県は最初ボランティアに来るなと言ったが手のひら返しした 4.被災地がボランティアを拒んだせいでボランティアが来なくなった 5.ボランティアから参加費をとるのはおかしい 6.被災地を見に行ったがまだ「瓦礫」が片付いてない、怠慢だ 7.二次避難者から料金を徴収するのは酷過ぎる 8.万博/宿泊割/ブルーインパルス飛行/政府外遊をやめてその予算を復興支援へ回すべき おわりに.行政・政治を動かす為にデマや誇張は許されるか 能登半島では今もなお、復興復旧が不十分な場所ばかりを敢えて探し「政府の対応が悪い!」と主張したがる人々も少なくない。一方で、復興復旧は政府と被災地、当事者らが協力して推し進めてきた。 当然課題も残るが、既に驚くべき成果を挙げた部分もある。それらを知ろうとすらせず、外野から「やさしい」批判をすることは、同時に被災地の努力と成果全てを「上から目線で」否定・侮辱すること、熊害に安全圏から文句を付けているに等しい行為にさえ繋がりかねないことに注意するべきだ。