「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り”
「40年以上経ったいまも、いまだに海のなかで、もがく夢を見るんですよ。あそこはまさに“地獄”でした」 【写真あり】戸塚ヨットスクールでの“地獄”を振り返る山内さん と振り返るのは、現在、50代後半の山内さん(仮名)だ。 かつて5人の若者が亡くなった「戸塚ヨットスクール事件」。創設者の戸塚宏氏は、8月8日にYouTubeチャンネル『令和ヨットスクール』を開設した。そこで戸塚氏は、体罰と暴力の違いなどについて持論を展開し、“体罰は善”と豪語しているのだ。 「当初は『オリンピックで通用するような一流のヨットマンを育てる』ためのスクールとして発足した戸塚ヨットスクールですが、次第に、戸塚氏の “スパルタ指導” が、非行や引きこもり児童の更生に効果があると評判になり、戸塚氏はメディアから『救世主』などと注目されるようになりました。しかし、生徒が暴行により次々と亡くなったことで事件化し、2002年に戸塚氏は懲役6年の実刑判決、当時、指導にあたっていたコーチもそれぞれ罪に問われました」(社会部記者) だが、動画での主張のとおり、戸塚氏は自身の教育方針をまったく反省していないーー。そこで重い口を開いたのが、冒頭の山内さんだ。 「令和の世に、戸塚の思想が絶対によみがえってはいけないと思いました。家族や親しい知人にしか入所した過去を話したことはありませんが、どうしても話さないといけないと思ったんです」(山内さん、以下同) 山内さんが、愛知県美浜町に位置する戸塚ヨットスクールに入所したのは、1981年のこと。当時15歳、中学3年生だった。 「私は2人兄弟だったのですが、中学1年のときに、慕っていた兄が病気で急死してしまったんです。それがショックで、学校を休みがちになってしまったんです。小学生のころは、生徒会長を務めるほど活発な子どもだったんですけどね」 そんなとき、中学校の担任が両親に勧めたのが、戸塚ヨットスクールだった。 「戸塚ヨットスクールから入校案内のチラシみたいなものが来ていたんです。私のことで悩んでいた担任が『こういう学校がありますよ』と持ちかけたのでしょう。入校案内には、スパルタであることや、体罰のことなどは書いておらず、自然のなかでヨットに親しみ云々と、それらしいことが書かれていました。まだ戸塚ヨットスクール自体がテレビなどで取り上げられておらず、私が入る2年前に、すでに13歳の少年が亡くなっていたことも明らかになる前のことです」 費用は入校費が100万円。ほかに1カ月あたり30万円支払う必要があった。預ける期間は基本1カ月。 「何もわかっていないので、母親に連れられて入所しました。強引に連れ出される生徒がほとんどなので、『自分から来たのはお前が初めてだ』と、その場にいたコーチに言われましたね」 当時の校舎は、海沿いにある2階建ての古い木造の公民館だった。 「生徒は15、16人でしたかね。女性も2、3人いました。年齢はいちばん下が中学1年くらいで、いちばん上が18歳くらいだったと思います。コーチは5、6人ぐらい。 女性以外は、みんな入校初日に坊主にされるんですよ。どちらかというと、登校拒否という静かな子どもより、暴走族や家庭内暴力など“非行”を理由に預けられている子のほうが多かったです。聞いてみたら、『ゲームセンターにたむろしてたところを無理やり拉致された』なんて人もいましたね」 ここから毎日、暴行を受ける地獄の日々が始まるわけだが、そもそも環境自体が劣悪なものだった。 「ほぼ監禁でしたね。夜になると施錠され、外には“番犬”まで用意されている。窓にも板が貼ってあるので、逃げられません。戸塚は自宅から通い、コーチと生徒が共同で生活するという感じです。2階にはコーチのための部屋と、生徒が雑魚寝するための広間がありました。生徒は寝袋で寝るのですが、まったく洗ってないので、とにかく臭い。お風呂はあったけど使わせてもらえず、ボートの練習が終わったら、ホースで水を浴びるだけ。週に2回だけ、近所の宿屋のお風呂を借りることができました。 食事も、料理なんて呼べるようなものはでません。白米と、具のない味噌汁に、漬物。たまにヨットのスポンサーから支給される缶詰ぐらいです。それで月30万円取ってたわけですからね」 起床時刻は朝6時。そこから肉体的、精神的な“暴力”が始まる。