「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り”
「体操の時間と称して、1時間以上にわたりシゴキが始まります。そこでひたすら殴られるんですよ。理由はまったくありません。突然、拳で頭を何度も殴られて、倒されます。そのまま伏せていると、今度は『怠けるな!』と怒鳴られ、蹴られる。あわてて立ち上がると、再び『逆らうな!』と殴られる……その繰り返しです。いちばん生徒を殴ったのは戸塚ですが、コーチにもよく殴られました。さらに許せなかったのが、被爆地の出身だからという理由で『原爆』というあだ名で呼ばれたことです。殴られながら『原爆頭やから人よりも丈夫やろう?』と言われたこともあります」 いまでも、当時の怪我のせいで後遺症が残っている。 「ひとつは、あるコーチに丼で思いっきり頭を殴られたこと。洗い物に、洗剤の泡が残っていたという理由ですね。額の横を殴られて、頭や顔の形が変わるほど腫れ上がり、頭蓋骨にヒビが入りました。いまでも傷が残っています。それから、同じコーチに鉄筋で左ヒジを何度も殴られたこともあります。このせいで靭帯が傷ついてしまい、いまでも左ヒジは痛みます」 “体操”を終えた後に待っているのは、ボート上での“殺人未遂”だ。 「戸塚に、ヨットに乗せられて沖まで連れていかれました。通常、ヨットの練習をするときはウエットスーツを着て、その上に救命ベストを着るのですが、その場で救命ベストを脱がされ、いきなり海に蹴落とされたんです。そしてそのまま、戸塚は宿舎に戻っていきました。ウエットスーツを着てるとはいえ、サイズが合わないので、水が入ってきて、身動きが取れない。岸に戻ろうにも戻れず、あきらめて海に浮かんでたんです。1時間ほど経って、なかばあきらめていたら、たまたま漁師さんの漁船かボートが通りかかって、引っ張り上げてくれたので、九死に一生を得ました」 ボートそのものを“凶器”として扱うこともあった。 「台風の日もヨットの練習をするんですよ。戸塚ヨットスクールのヨットは、わざと転覆しやすいように重心を軽くしたもの。台風の日は波も風も強いので、何度も倒れるんですよ。すると、『何モタモタしてんだよ!』と怒鳴られる。そして、やっとボートを立てられたと思ったら、ボートに乗った戸塚が後ろから全速力でやってきて、私の腰に船首をバーンとぶつけてきたんです。それ以来、腰がヘルニアになってしまいました。そんなことが続くうちに、『ここにいたら殺される』って考えになっていきましたね」 戸塚ヨットスクールでは、山内さんだけが“標的”にされたわけではない。多くの生徒が殴られ続け、女子生徒や一部の生徒は“性被害”まで受けていた。 「生徒たちが寝静まる時間に、一部の女子生徒だけが『マッサージをしに来い』とコーチの部屋に呼ばれるんですよ。私は見つかったらまずいと思いつつ、1度だけこっそり覗いてみたことがあるんです。そしたら、そのコーチが高校生ぐらいの女性訓練生の服のなかに手を入れてるのが見えたんです。明らかに、コーチがマッサージを受けているという状況じゃなかったです。 それから、当時は生徒の中に、気弱な男の子が2人いました。その2人は、性的ないじめのターゲットにされていたんです。夜の自由時間になると、あるコーチと70歳ぐらいのスクールの支援者が僕らの部屋にやってくる。そしてその2人のコを追いかけ回して、みんなの見てる前で、下半身を露出させて、笑いながら陰部を触り続けるんですよ。2人はすごく泣きわめいて、かわいそうでしたね。みんなは目を背けていましたが、戸塚は笑ってみていました。たんなる悪ふざけというレベルを超えたものでした……」 予定されていた入所期間は1カ月ーー。だが、当時の山内さんにとっては無限とも思えるような長さだった。 「私が入ったのは6月ごろでした。1カ月で出られると思っていたら、入所してすぐに戸塚から『夏休みになるからもう1カ月ここにいろ。親には言っておく』と言われたんですね。絶望しました。本気で殺されると思い、脱走計画を立てたんです」 山内さんが入所して2週間が経ったころから、本格的な計画を立て始めた。 「まず一度、手始めに脱走しました。子どもでしたから、どこにどうやって逃げればいいかわからない。なので、周辺の地理を把握するために脱走したんです。トイレに行くふりをして、トイレの窓から逃げました。トイレの窓には、外側から板が張ってありましたが、板の間に少し隙間がありました。そこに無理やり体を突っ込んで、脱出したんです。番犬は事前に飼いならして、なんとか吠えないようにしました」 駅の位置を確認した山内さんは、スクールに戻った。現場ではスタッフ総出で捜索がおこなわれていた。 「一度、脱走してからというもの、さらにシゴキがきつくなって。結局、さらにその2週間後に本格的な脱走をおこないました。朝4時に起きて、みんなが寝ている間にこっそり出たのです。所持金は1000円だけでした。最寄りの駅は、普段から『駅員に話してあるから、日焼けした坊主頭の子どもが乗ろうとしたらこっちに通報が来るようになっている』と脅されていました。なので、目立たない道を使って2時間歩き、4駅先の無人駅を利用しました。それで名古屋駅まで逃げたんです。電話で、遠く離れた実家にいる両親に『殺される! 迎えに来てくれ!』と。ただならぬ気配を察したのか、当日の夕方にはやってきてくれました」 じつは山内さんは、ジャーナリスト・上之郷利昭氏の著書『スパルタの海 甦る子供たち』にも登場している。同作は後に伊東四朗主演で映画化され、戸塚側の主張を丸呑みにした“礼賛本”として知られている。 当然、同書のなかで山内さんのことは“自転車を盗んで脱走した悪童”と扱われており、両親は最後まで戸塚を信じることができなかった“駄目な親”として描かれている。 「父が迎えに来てくれるまでは、私も半信半疑でした。親がスクールに連絡を取り、戸塚が確保しに来るのではないかとか……。でも、父と母の2人が待ち合わせ場所に現れたんですよ。そこで私は、頭や腕に残る体中の怪我を見せました。厳格だった父も、すぐに“異常さ”に気がついてくれました」 山内さんの父が戸塚氏に息子を引き取ると連絡したところ、戸塚氏はどうしても話し合いがしたいと言って聞かず、名古屋駅までやってきた。 「名古屋駅まで戸塚たちが車で来ましたよ。5、6人で現れて、私は3人ぐらいに駅の地べたに取り押さえられたんですよ。父と戸塚は、私から少し離れたところで、立ち話を1、2時間してたと思うんですけど、父は『どうしても連れて帰る』と。戸塚は『もう少し預からせてほしい』と、譲らないわけですよ。私は、いま連れ戻されたら今度こそ殺されると思っていたので、必死でした。あのとき、父が頑として連れて帰ってくれたおかげで、生き延びました」 山内さんはその後、学校生活に復帰し、大学を卒業後、結婚。子どもを授かり、まじめに会社に勤めている。 「はっきり言いたいのは、戸塚ヨットスクールは“更生”には何の意味もないということです。むしろ当時の私を支えてくれたのは、休みがちでも毎朝『学校行こうぜ』と誘ってくれる友達でした。戸塚の“教育という名の暴力”で生まれたのは肉体的、精神的な後遺症だけです」 元訓練生の決意の告発に、戸塚氏はなんと答えるのか。戸塚氏がおこなった一連の暴行と、スクール内での性加害について質問を送ったところ、代理人弁護士から「事実上及び法律上の前提を全く異にするものであるため、以下の理由により回答することを拒絶する」という返答があった。 代理人弁護士による「拒絶の理由」はA4で4ページにわたり、“独特な持論”を述べる内容だった。 まず、現在、戸塚ヨットスクールは現在は安全に配慮した幼児向けのボート・トレーニングを実施していると主張。さらに、過去の刑事事件については「再審を検討中」であり、戸塚ヨットスクールが約1000人の子どもを社会生活に復帰させるという「絶大なる成果」をあげたことは、「全く実績が挙げられない教育界としては、虚名を維持するためにはどうしても葬り去らなければならない事実」であったため、国策捜査によって事件化されたと主張したのだ。 そのうえで同弁護士は、「進歩を目的とする有形力の行使である体罰と、その目的を持たない単なる暴行とを完全に同視する見解は、法の論理に悖るものであつて極めて非科学的」であると断じた。 なお、性加害に関して言及はなかった。山内さんは最後に、力を込めてこう語る。 「彼らは、道を外れた人を更生させるといいますが、いちばん道を踏み外しているのは彼らなんですよ。戸塚もコーチ連中も、あの異常な場所でしか生きることのできない人たちなんです。私は、決して彼らを許すことができないですし、体罰を美化する考え方は、絶対によみがえってはいけません」