侍ジャパン・井端監督も出身!「地獄、刑務所と表現したOBも」…阿波野秀幸氏と与田剛氏が振り返る「日本一厳しい」《亜細亜大学野球部》での「想像を絶した日々」
扉の奥から聞こえてきたうめき声
阿波野 僕が一番ショックというか、覚えているのは横浜市立桜丘高校時代はそれなりの都会生活だったの。それで大学は東京に行く、と。それなのに最寄りの武蔵引田は駅員のいない単線の駅。 与田 それは僕も驚きました。 阿波野 JR中央本線などで立川駅まで行ってJR青梅線に乗り換えて、さらに拝島駅でJR五日市線に乗り継いで到着する。タイミングが悪いと拝島駅で40分くらい待たされたりする。今はショッピングモールとかもできているけど、駅から寮までの間は町中華みたいなのが一軒くらいしかなかったよね。 与田 パン屋さんもありましたね。 阿波野 あとは畑とか、そんな感じ。 与田 田園風景でしたよね。 阿波野 野球以外することないでしょっていう。ここで大学時代を過ごすのかと落胆した。坊主頭のこともあったけど、僕はそっちがキツかったな。 与田 ネットもないから、実際に行ってみなければ知ることができませんでしたからね。 ただ、僕はそれ以前に亜細亜の野球部がどういうところかということすらよくわかっていませんでした。木更津中央高校(現・木更津総合)時代は全然、実績を残せなかったんですが、プロに行きたいという夢は捨てていませんでした。それで高校の監督に「日本一厳しい大学を紹介してください」とお願いしたら亜細亜の名前が出たんですが、「亜細亜がどんなところかわかっているのか。おまえでは4年間、もたいないだろうな」という雰囲気を出されていた。 でも、うちの高校から亜細亜に行ってプロでも活躍された古屋英夫さんがたまたまお越しになったときに「俺は亜細亜に行ってピッチャーからバッターに転向して、鍛えてもらって今がある」という話をしてくれたんですね。 だから僕の中で亜細亜のイメージはすごく良かったんです。いま思えば、もっと具体的に聞いておいたらよかったなって(笑) 阿波野 僕もセレクションに行ったときに、やっていけるのかなと不安に思った。セレクションは2日間にわたって行われて参加した高校生は野球部寮に一泊するでしょ。それで大広間でゆっくりしていたら、「ちょっと高校生、一回、退室するよ」って言われて、みんなで出ていくと、入れ替わりで1年生、2年生が入っていって“指導”が始まった。 扉は閉じているから見えないんだけど、気になって様子をうかがっていると、はっきりした声は聞こえないけど、うめき声みたいなのが聞こえてきた。
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