大切な人を失った後悔は抱えたままで生きるのがいい 問題はその扱い方と悲しむ作法にある
「ひんぱんにお墓参りし過ぎるので、まわりから止められたがどうすればいいか」という相談でした。 一日に何度行くのか尋ねると、多いときで4、5回とのこと。専業主婦の彼女は、それで生活に支障を来しているわけでもなさそうです。私はこう言いました。 「それなら、好きなだけお墓参りすればいいじゃないですか。だって、昼間にあなたが何度お参りしたとしても、誰も困らないでしょう? 娘さんのことを簡単に忘れてしまったほうがかわいそうじゃないですか」 「でも、それじゃ成仏できないと言われて……」 誰が言ったのか聞くと、「親戚です」と言うので、「その親戚は、一度死んだことがあるの?」と聞いてみました。 「いえ、生きています」 「それなら、なぜその人は、墓参りし過ぎると成仏できないとわかったの?」 私がそう言うと、母親は少し考えて言いました。 「……今までどおりに、お墓参りしてもいいんでしょうか?」 「それで、誰か困る人でもいますか?」 母親はホッとしたような顔で、首を横に振りました。 ■枕元の遺骨はいつまで 突然の事故で娘さんを亡くした後、数年経った今も遺骨を枕元に置いて寝ていると話す母親もいました。やはり、「それでは成仏できないから、早く墓に遺骨を納めろ」と周囲に言われて悩む母親に、私はこんな言葉をかけました。 「墓に納めた程度で成仏するんだったら、いつだって成仏できるから大丈夫。母親があっさり自分のことを忘れるほうが、娘さんは寂しいですよ。好きなだけ遺骨を抱いて寝ればいいんです」 どんなに悲しみを抑えようとしても、死者を思う痛切な気持ちは、疑いようもなくそこにあるのです。見て見ぬふりをしろと諭すのは酷な話です。 悲しみから立ち直れないのであれば、無理して立ち直ることなどありません。誰がなんと言おうと、悲しみたいだけ悲しめばいいのです。 不思議なもので、どんなに悲しくてもお腹は空きます。別れの悲しみから立ち上がれない人に「食事はとれていますか?」と尋ねて、「はい」と答えが返ってきたら、私は安心します。
心は深い悲嘆の淵にあったとしても、生身の体には生きる意欲があるわけですから。そうであれば、泣きたいだけ泣けば、必ずふと笑える瞬間がやってきます。その瞬間が、いつになるかはわかりません。でも、そのときは必ず来ます。 ただし、悲しみが完全に消え去ることはないと思っておいたほうがいいでしょう。だから、悲しみとともに生きると決め、「悲しむ作法」を見つけることなのです。
南直哉