初代ロードスターの原点に迫る【後編】米国マツダでデザインされ日本でのプレゼンで勝者に!『懐かしのデザイン探訪』
匠の感覚でクレイを削る
「でも、使いにくいから作り方を工夫する」と梶山。テープドローイングから細かく寸法を採ってクレイにプロットしていたのでは時間がかかるので、要所だけいくつかプロットして、後は感覚で削っていく。それが許されたので、モデラーとしては楽しかった」 「だからテープドローイングは最初の叩き台みたいなものだった」と八木は言う。テープドローイングに続いて、八木はフルサイズのレンダリングも描いた。梶山によれば、「フルサイズレンダリングを見れば、八木さんが何をやりたいかがわかる。だから感覚で削っていけた」とのことだ。 クレイモデル制作はハードトップ仕様で進めたが、オープン仕様も提案しなくてはいけない。着脱式のFRP製ハードトップを作るため、ビル・マッキンタイヤーというモデラーが現地雇用された。 全体のデザインが決まった後、キャビン部分のクレイモデルから型取りして雌型を制作。「ビルが作った雌型が、素晴らしく美しい。使い終わった後しばらく、スタジオの壁に飾っていたほどだった」と八木は振り返る。残念ながら今回、雌型の写真は発掘できなかったが・・。
デザインを決定する本社での運命の審査!結果は…
広島本社でのプレゼンテーションは84年9月に行われ、東京スタジオが手掛けたFF案とミッドシップ案、そしてMANAのFR案という3台の1/1モデルが審査を受けた。FF案とミッドシップ案は佐藤洋一、鈴木英樹の二人がデザインを担当。東京スタジオも先行開発を任務とするが、マツダ東京支社の一角にあったので、1/1モデルは外注制作したものだった。 東京スタジオのFF案 東京スタジオのミッドシップ案 MANA(マツダ・ノースアメリカ)のFR案 審査の結果、上層部が選んだのはMANA案だった。八木はこの朗報をMANAで聞いた。任期を終えて帰国する直前のことだ。さぞ大喜びしただろうと思って聞くと、「連絡を受けて、涙が出るほど嬉しいという感覚ではなかった」と意外な答え。「P729も含めて、アメリカで仕事した全体が自分の財産になった。当時、若手でアメリカ駐在したのは私が初めてだったので、P729の成果より、3年半向こうでやり切ったという達成感のほうが大きかったように思う」