サニーデイ・サービス 曽我部恵一「かけがえのないファンの人たちに歌うことが一番大事」
【音楽通信】第165回目に登場するのは、日本だけでなく海外でもライブを成功に納め、国内外で幅広い年代の音楽ファンに愛され続けているロックバンド「サニーデイ・サービス」の曽我部恵一さん! 【画像】ロックバンドの極み! サニーデイ・サービスや曽我部恵一さんのショット集はコチラ。
大学時代にサニーデイ・サービスを結成
【音楽通信】vol.165 曽我部恵一さん、田中貴さん、大工原幹雄さんの3人からなるロックバンド「サニーデイ・サービス」。1994年のメジャーデビュー以降、'70年代の日本のフォークやロックを'90年代のスタイルで解釈し、再構築したまったく新しいサウンドと文学的な歌詞は、聴き手に鮮烈な印象を与えました。 バンドの解散や再結成などを経て、近年は日本だけでなく海外でもライブを成功に納め、国内外で揺るぎない支持を獲得し、幅広い年代の音楽ファンに愛され続けています。 そんなサニーデイ・サービスが2024年8月28日に、アナログ7inchシングル「Pure Green」をリリースしたということで、バンドを代表してフロントマンの曽我部恵一さんにお話をうかがいました。 ーーサニーデイ・サービスの作詞作曲をほぼ手がけ、ご自身のソロ活動でもご活躍中の曽我部さんですが、そもそも幼いときの音楽環境はどのようなものでしたか? テレビで『ザ・ベストテン』(1978~1989年、TBS系列)といった歌番組を観ているふつうの子どもでした。でも、母親が家でサントラのレコードをよく聴いていて。当時流行していたポール・モーリア(「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」などで知られるフランスの音楽家)らイージーリスニングのレコードを一緒に聴いていたぐらいですね。能動的に音楽を聴くようになったのは、中学生から。洋楽を聴きはじめて「セックス・ピストルズ」などのパンクを聴くようになりました。 ――その後、ご出身の香川県から、大学進学を機に上京されましたね。 そうです。1992年には、大学生だった僕を中心に、サニーデイ・サービスを結成しました。現在もメンバーの田中もいて、インディーズでCDも出しています。 ――1994年になると、ミニアルバム『星空のドライブep』でメジャーデビューされましたが、当時の心境は覚えていますか? 僕らはデビューしてもまったく売れなかったから、何の話題にもならず、悶々としていたことを覚えています(苦笑)。 ――そして2000年に解散。8年後に再結成されますよね? はい。たとえば、メンバーの仲がわるくてギスギスしていたのが、8年ぐらい時間が経つと、もう忘れていて。バンドとしてのフェスの出演オファーがきっかけで、その頃にはバンドが懐かしくなって、「またやってみようかな」「演奏してみようか」くらいの感じで再結成したんです。だから、当初は続けて活動していくつもりはなかったんですよ。 ――思いのほかバンド活動が続いて、2018年にはドラム担当の丸山晴茂さんがご逝去され、2020年に大工原さんが加入されて現在に至ります。曽我部さんにとって、サニーデイ・サービスとは、どんな存在ですか? やっぱり、サニーデイ・サービスはすごく大事な存在です。いまはまた、バンドを始めた頃の「バンド活動を頑張ってやらないとだめだ」という気持ちに近いんですよ。2008年に再始動したときは、ソロ活動が軸になっていたから、サニーデイはまた別の感覚でした。でもいまは、サニーデイ・サービスがメインになっているかもしれないですね。