謎の古代都市ペトラ かつては3万人が生活、バラ色の古都は誰がつくりなぜ捨てられたのか
ペトラをつくったのは誰か?
ナバテア人は商人として、南アラビア、アフリカ、インドの生産者とギリシャやローマの消費者の仲介役を務めていた。ナバテア人はラクダのキャラバンで乳香、香辛料、絹などの商品を輸送し、税金によって富を蓄積した。歴史文献によれば、ナバテア人は輸入品に25%の税を課していたという。 ペトラにある遺跡の大部分は墓で、ナバテア人は死後の世界に大きな関心を持っていたとアル・サルミーン氏は考えている。「彼らは人生を短い旅のようなものととらえていました」 2024年に12体の遺骨が発見された宝物殿のように、いくつかの墓は岩壁を削った精巧な構造物に収められている。ほかの墓は砂岩の柱のようなシンプルなものだ。 一部の墓には、当時の共通語アラム語の碑文が残されている。これらの碑文には、その墓に埋葬される資格のある人物、墓の侵害とみなされる行為、違反者に対する罰則や呪いが列挙されているとアル・サルミーン氏は説明する。旅行者のゲストブックのように追悼の碑文が残されている墓もあり、名前と神への祈願が記されているのかもしれない。 ペトラやそのほかの遺跡にある碑文は、ナバテア人の多神教についていくつかの情報を提供している。ナバテア人の神は主神であるドゥシャラ、女神アッラートなどで、その表現は時代とともに変化していったとペリー氏は述べている。 当初、神々は人間の形をしていなかったが、徐々に擬人化されていった。そして、ドゥシャラはゼウスと結び付けられ、アッラートはアフロディーテのように描かれるようになった。ギリシャ・ローマ文化の影響を受けていたことは明らかだが、なぜ神々の表現が変化したのかという理由はわかっていない。
ペトラでの生活はどのようなものだったのか?
果物、穀物、肉類など、ナバテア人が何を食べていたかについても情報が掘り起こされている。アル・サルミーン氏によれば、パピルスに記された売買証書から、ナバテア人の農業をのぞき見ることができるという。そのほかにも、動物の骨をはじめとする葬祭の料理の残りものなど、墓や隣接する宴会場から手掛かりが見つかっている。 「ナバテア人が宴会を開いていたことを示す証拠がたくさんあります」とペリー氏は話す。 ペトラの北に位置するベイダという地域では、作物や樹木が栽培されていた。また、食事の残りものから、ペトラの人々は死海から輸入した魚を食べていたことが明らかになっている。 不毛の砂漠にあるペトラが繁栄していたのは、「水を一滴残らず集めることを目的とした高度な取水システム」のおかげだとアル・サルミーン氏は言う。ナバテア人は都市の外にある泉の水をパイプで引き込み、岩に水路を掘って雨水を集めた。水をためるためのダムや貯水池も建設した。