修学旅行の旅先選びが変化、直近5年を比較、「探究学習」浸透で「ホンモノ体験」がトレンドに【コラム】
こんにちは、日本修学旅行協会の竹内秀一です。 読者の皆さんは、中学・高校の修学旅行はどこに行きましたか? ここ5年間の実施調査をみると、中学校の旅行先はコロナ禍の時期も含めて京都・奈良がいつも1、2位を占めています。これは、戦前・戦中の流れの影響もあるかも知れません。一方、高校では沖縄が一番人気。コロナ禍で一時落ち込みましたが、急速に回復しつつあります。 今回は、前回に続いて戦後からの修学旅行の歴史を振り返りながら、コロナ禍の間の変化、新学習指導要領に対応した現在のトレンドについて述べてみたいと思います。
修学旅行専用列車が走る
修学旅行の旅行先は、当然のことながら利用する交通機関と大きく関わっています。コロナ禍前、中学校では新幹線など列車を利用する学校が6割強、高校では航空機を利用する学校が7割強となっていました。 皆さんは、「ひので」や「きぼう」といった愛称がつけられた列車があったことをご存じでしょうか。乗車した経験をお持ちの方がおられるかも知れません。黄色と朱色のツートンカラーが印象的な列車でした。これらは修学旅行専用の列車で、「ひので」は関東地区の生徒たちを京都方面に、「きぼう」は関西地区の生徒たちを東京方面に運びました。関東・関西以外でも、たとえば「こまどり」や「とびうめ」などと名付けられた修学旅行専用列車が各地で走っていました。 修学旅行専用列車は季節限定の臨時列車で、複数の学校の生徒が乗り合わせて目的地に向かうもの。「連合体輸送」と呼ばれ、現在も新幹線などに引き継がれています。それでは、なぜ連合体輸送がおこなわれるようになったのか。修学旅行の歴史を再びひもといてみたいと思います。
終戦翌年から早くも再開
太平洋戦争の戦況の悪化で停止されていた修学旅行でしたが、戦争が終わるとまもなく再開されるようになります。1946年には早くも、群馬県の商業学校が1泊2日で日光に、山口県の高等女学校が3泊4日で松江・大社方面に行った記録が残っています。まだ戦後の復興もおぼつかなく、交通事情や食糧事情などもよくない時期でしたが、これほど早い段階で修学旅行が再開されたのは、学校が「学びの旅」という価値を重視していたからだと考えられます。 しかし、多くの学校で修学旅行が再開されるようになると、実施が同じ時期に集中したことで列車が猛烈に混雑したり、乗車希望の列車を確保することが難しくなったりという状況が生じてきました。また、列車内での生徒による迷惑行為が頻発し、一般乗客とのトラブルも起きていたようです。そこで、一般客が乗車しない修学旅行専用の列車を設けて複数の学校の生徒をまとめて乗車させ、異なる学校の先生たちが協力して生徒を指導することに。連合体輸送は、このような問題に対処する手段として始まったのではないかといわれています。 連合体輸送は1954年、和歌山県の中学・高校が専用列車を使って修学旅行を実施したことから始まりました。修学旅行専用の車両として「ひので」・「きぼう」の建造が決定されたのは1958年で、翌年4月から運行が開始されています。ちなみに、この車両は6人用と4人用が並ぶボックス型のシート。車内で勉強ができる折り畳み式の大きなテーブルや、水筒に水を入れるための飲料水タンクなど特別な設備も設けられていました。