紫式部が「姫君の美しさ」と評した宰相の君
また、生まれた子ども(敦成/あつひら/親王/のちの後一条天皇)にお湯をかける、すなわち御湯殿の儀では、御湯殿役を務めている。五十日の祝いには、中宮の「御まかない」(給仕役)に任命されており、これらのことからすると、宰相の君は藤原氏に信頼されていたばかりでなく、彰子の女房のなかでも上役に位置する、有能な女性だったようだ。 なお、彰子の女房で名が知られているのは、宰相の君のほか、宮の宣旨、大納言の君、小少将の君、宮の内侍、馬の中将などがいる。そのほか、赤染衛門(あかぞめえもん)、和泉式部(いずみしきぶ)、伊勢大輔、そして紫式部などの女流文化人もいて、総勢20名ほどが、女房として彰子に仕えていたとされている。 のちに宰相の君は後一条天皇の乳母を務めた。後朱雀(ごすざく)天皇誕生の際には、乳母の筆頭となっている。 私生活においては、讃岐守を務める大江清通(おおえのきよみち)と結婚。ふたりの間には、大江定経(さだつね)が生まれている。 のちに従三位にのぼり、1036(長元9)年に夫が亡くなったことを契機に出家した記録が残っている。 紫式部と親しかったようで、「紫式部日記」には彼女の名が出てくる。それによれば、昼寝をしていた宰相の君を見た式部は「絵にかきたる物の姫君の心地すれば」、つまり物語に出てくるお姫様のようだ、と感じたらしい。どうやら数いる彰子の女房のなかでも、宰相の君は一、二を争う美しい容姿の女性だったようだ。
小野 雅彦