巨人軍・黒沢俊夫が「永久欠番」のワケ レジェンド沢村に隠れた知られざる生涯(小林信也)
巨人には“永久欠番”があると小学生のころ知った。沢村栄治の14、川上哲治の16、そして黒沢俊夫の4だ。沢村、川上は野球少年ならしばしば耳にする伝説の選手だが、黒沢の名はほとんど聞いたことがない。
「現役中に病死した選手」だと聞かされたが、永久欠番にふさわしい活躍ぶりは知らされた覚えがない。黒沢は一体どんな選手だったのか。なぜあの沢村と共に巨人から最高級の敬意の証しを贈られたのか。長年の疑問を解きたくて、黒沢の足跡を追いかけてみた。 黒沢は1914年、大阪府生まれ。八尾中時代は春夏の甲子園に5度出場。関西大では後に大阪タイガースで通算55勝を挙げた西村幸生投手らと関大黄金時代を築いた。36年、新たに誕生した名古屋金鯱軍に入団。左投げ左打ちの外野手として活躍した。黒沢の最大の武器はどうやら俊足と、勝負を左右する場面での果敢な走塁にあったようだ。 37年4月30日付の読売新聞には、《黒沢“脚”の殊勲》と大きな見出しが躍っている。「職業野球 春の大リーグ戦」、金鯱がイーグルスを1対0で下した試合の講評に、後の巨人球団代表・宇野庄治が記している。 〈イーグルスは再び惜しい試合を逸した。(中略)唯一の生還者黒沢の健脚を賞さねばならない、この回二塁打に出た黒沢は三盗に成功したうへ三上の三塁ゴロで猛然本塁を衝き間一髪の差で生還したがそのスタートは稀れに見る素早やさであつた、普通なれば當然三塁に踏み止まるべきが常道であるのにも拘らずなんら躊躇するところなく突込んだ……〉 この試合、黒沢は4番レフトで先発、2打数2安打を記録している。同年の春季リーグでは打率3位。秋季リーグと合計で32盗塁。そのオフ応召し、40年に復帰。再び従軍した後、43年に球団合併等で名を変えた西鉄に入団。その西鉄が資金難や選手不足で解散したため、黒沢は“供出選手”となった。 その時、黒沢を獲得したのが巨人だった。他球団から補強せず、生え抜きの選手だけで戦う主義だった巨人も多くの主力を戦争に取られ、苦境にあった。やむにやまれず、投手の近藤貞雄と共に獲得した移籍第1号選手が黒沢だ。つまり黒沢は巨人の球団史上最初の外様だったのだ。