巨人軍・黒沢俊夫が「永久欠番」のワケ レジェンド沢村に隠れた知られざる生涯(小林信也)
本盗成功10回
巨人1年目の44年には35試合に出場、打率.348、出塁率.447、盗塁14と活躍した。翌年は職業野球が戦禍のため中断。再開した46年には105試合に出場し打率.308、本塁打3本、打点60、盗塁18。まだ復員できない選手もいる厳しい状況下、黒沢は中心的な役割を果たし、巨人の伝統をつないだ。 黒沢の伝説を語る時、忘れるわけにいかないのが、本盗(ホームスチール)だ。通算成功10回は、最多の与那嶺要の11回に次ぐ2位。44年5月20日の近畿日本戦では1試合に2度も本盗を成功させている。 その黒沢が、球場から突然姿を消したのは、巨人で活躍して3シーズン目になる47年の6月だ。
腸チフスで他界
古い新聞をたどると、5月末までは確かに試合に出場していた。5月31日の太陽戦では1対1の同点で迎えた9回裏、走者一、二塁の場面で打席に立ち、ライト前にヒットを放った。サヨナラ勝ちか、とファンを沸かせる一打。「勝負強さは天下一品だった」と評される一端が見える快打だ。この時は二塁走者の青田昇が太陽の右翼手・辻井弘の好返球に刺されて憤死。サヨナラ勝ちにはならなかった。 それからまもなく、黒沢がダイヤモンドに姿を現さなくなった。最後の出場は6月5日の南海戦。 この時、巨人の成績は勝率4割前後と低迷し、大きく負け越していた。監督の中島治康の更迭論が盛んに叫ばれていた時期だけに、黒沢はずっと腹部に痛みを感じていながら言い出せず、無理に試合に出続けていた、と後に判明する。実際、3日に監督就任の打診を受けた三原脩が中島への配慮から「助監督兼技術顧問」の肩書で復帰すると決まったのが、黒沢が球場から姿を消した翌日の6日だった。 本人も最初は腹痛かと思っていた病気が腸チフスと診断され、東京大学病院に入院。そのまま回復せず、現役の巨人軍選手のまま6月23日に帰らぬ人となった。球団は、苦境の中、主力打者として球団を支えた黒沢の功績に対し、7月9日に球団葬を行った。 そして、巨人のエースとして草創期の職業野球の隆盛に貢献した沢村栄治の14と共に永久欠番とすると決定した。 MLBで最初に永久欠番に指定されたのは39年、ヤンキースのルー・ゲーリッグ。奇しくも背番号4。日本でもアメリカでも、最初の永久欠番は4だった。ゲーリッグも現役中に難病の筋萎縮性側索硬化症と診断され、引退からわずか2年後に世を去っている。 巨人在籍期間は長くない。だが、黒沢は選手から深く慕われていたようだ。千葉茂ら選手たちが「黒沢の家族を支援しよう」と提案し、その年の秋に追悼試合が開催され、収益は遺族に贈られた。 小林信也(こばやしのぶや) スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。 「週刊新潮」2024年4月11日号 掲載
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