さまざまな色の絵の具を塗り重ねるように描く「ひとりの女性の人生」(レビュー)
「ほんとうに生きてるって思えるのは、泳いでいるときだけ」 地下にあるプールに通い詰めているスイマーズはそう語る。 プールには、さまざまな人が泳ぎにくる。終身在職権を得られない教授、リストラにあった広告業界の男。水の中ではそうした属性は意味をなさず、プールの規則にのっとってひたすら泳ぎ続けるだけの存在になる。そうした人を語るにあたって「わたしたち」という声が選ばれ、彼ら彼女らの声は多層的に響き合う。 「わたしたち」の語りは、オオツカの前作、アメリカに渡った写真花嫁の人生を描く『屋根裏の仏さま』でも選ばれていた。『スイマーズ』では、はじめ「わたしたち」の声で語ったのち、途中で三人称の「彼女」と二人称の「あなた」を主語にした語りに転調する。 転調後に焦点が当たるのはスイマーズのひとりで認知症を患っているアリス(=彼女)。「あなた」と呼びかけられるのが作家自身を思わせるアリスの娘だ。 プールを離れたアリスは、介護施設で暮らしている。彼女の病気は、「わたしたち」のプールにできた「ひび」を思い出させる。「わたしたち」は、目をそらし、怯え、うろたえ、何か意味があるのではないかと考えたりもするが、「ひび」が消えてなくなることはなく、アリスの病気がよくなることもない。 彼女が覚えていることは日増しに少なくなるが、覚えていないことはただの欠落として描かれない。覚えていないことと覚えていることの断片を書き連ね、さまざまな色の絵の具を塗り重ねるように、ひとりの女性の人生が明らかになる。 アリスが「わたしはわたし」と感じられた場所がプールだった。だが、介護施設にいてもアリスはアリスなのだ。老いを単純に美化することなく、愛おしむように晩年をスケッチするその描き方に、息をのむ美しさが宿っている。 [レビュアー]佐久間文子(文芸ジャーナリスト) 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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