河合優実「彼女の人生を、自分が生き直す」。コロナ禍で過酷な運命に翻弄された女性を演じた思い
作り手がわかったふりをしないことの大切さ
本作において、そして杏にとっても大きな存在なのが、多々羅という人物だ。薬物犯罪を取り締まる刑事である一方、薬物更生者の自助グループを主催し、薬物依存に苦しむ人々をサポートしている。ぶっきらぼうだが人懐こい多々羅の人柄に杏は心を開き、彼の助けにより介護施設で働くまでになる。 しかし杏は、彼のもう一つの顔を知ってしまう。自分を、そして多くの人を救ってきたはずの人物の、想像だにしない“裏切り”。 河合は「私個人の感情として、どういった事情があったとしても絶対に許せない自分がいるため、非常に悩みました」と吐露。整理がつかないなか、撮影の日々は刻一刻と近づいてくる。河合は入江監督とも話し合い、従来得意としていた「作品全体を俯瞰して自分の役割を逆算して全うする」スタイルではなく、香川杏という人物を演じることに注力する「主観/没入」型のアプローチを決断。「それが精いっぱいだった」と反省の弁を述べながらも、その決断により、作品全体もまた多々羅を糾弾するものではなく、杏の人生を“体験”するものに推移していったと振り返る。 「杏の目線でいえば、あのとき引っ張り上げてくれたのが多々羅なのは揺るぎません。そして映画全体の視点も、杏にフォーカスしたものになっています。『赦す/赦さない』『裁く/裁かない』といったように白黒つけるのではなく、ただただ“あの瞬間、杏にとって多々羅は光だった”状態をそのまま映せるのもまた、映画の強みだと改めて感じました」 観る者にゆだねること。そして作り手がわかったふりをしないこと、その余白を恐れずに作品に臨むこと。それは入江監督と共有した思いだったという。 「入江監督は『わかりたいから映画を撮っている』とおっしゃっていました。私自身も“こういう風に描こう”ではなく、“日々感じることで変化しよう”と考え、あえて答えを持たずに臨みました」
「毒親」を重層的に描いたことの意味
こうしたスタンスは、人物像を紋切型にしない。杏の母・春海(河井青葉)は娘に対して支配的で暴力的な毒親だが、時折、杏を「ママ」と呼んで依存する。この複雑な関係性は、毒親とその子どもの関係性が支配と被支配という一面的なものではないことを物語っている。 支配と依存で杏を縛る母。それでも母を捨てきれない杏に、河合さんは戸惑いながらも共感したという。 「私は、お母さんに対する杏の気持ちは“憎しみ”ではなかったように思います。好きと思っていたかもしれないし、自分がいないとお母さんがダメになっちゃう、悲しんだり怒ったりしている顔を見たくない、という気持ちもあったのではないかと。 ただ、母が娘を“ママ”と呼ぶような関係性を成立させるのは苦労しました。春海が杏を支配下に置いているようで、その実この家は娘で回っていることを表すため、何度もリハーサルを重ねていきました。春海がちゃぶ台をひっくり返すシーンも、青葉さんはもちろんアクション部さんを交えて現場で試行錯誤するなかで生まれたものです。“物理的な力は強くなくていいけど、手を出し慣れている感じをどう見せるか”を、時間をかけて見つけていきました」