山手線の内側の土地だけでアメリカ全土が買える→“すべてなかったこと”に…日本経済に致命傷を与えた「プラザ合意」の裏事情【森永卓郎の考察】
プラザ合意が日本経済に与えた“致命傷”
実際、プラザ合意直前まで、1ドル=240円台だった対ドル為替レートは、1987年末には1ドル=120円台の超円高となった。2年あまりで2倍の円高がもたらされたことになる。 2倍の円高になるということは、日本のすべての輸出商品に100%の関税をかけるのと同様の効果を持つ。大雑把な話をすれば、日本から輸出した商品の現地価格がいきなり2倍になってしまうということだ。 経済評論家のなかには「円高は日本経済が強くなった証拠なので円高のほうが望ましい」と言ったり、「輸入品を安く買えたり、海外旅行に安く行けたりするのだから、国民生活にとっては円は高いほどよい」などと解説したりする人もいる。 もちろん、そういう側面もあるのだが、経済全体としてみると、円高は必ず経済にマイナスの影響を与える。 私は、シンクタンク勤務の時代、ずっと「経済モデル」という経済の模型を作って、さまざまなシミュレーションをすることを生業にしてきた。その経験で言うと、どんな経済モデルを使っても、円高は輸出の減少を通じて、必ず経済の失速をもたらす。 実際、1985年に42兆円だった日本の輸出総額は、86年には35兆円、87年には33兆円と急減していった。 輸出不振は自動車産業をはじめあらゆる製造業にダメージ 輸出不振は、日本の産業界で唯一高い国際競争力を守ったと言われる自動車産業にも襲いかかる。 四輪車の輸出台数は1985年に673万台を達成していたのに、そこをピークとして、その後ずるずると減っていき、2022年には381万台と激減している。日本の自動車産業が世界一の地位を確保したのは生産拠点を海外に移したからなのだ。 同じことは、あらゆる製造業で起きているのだが、ひとつだけ私の個人的な趣味であるミニカーの事例を話させてほしい。
世界中で大人気だった「トミカ」がアメリカ市場から消えた理由
「3インチミニカー」と呼ばれる全長8センチ程度のミニカーは1950年代から1960年代にかけてイギリス・レズニー社の「マッチボックス」が世界市場を席巻していた。しかし、1960年代後半にアメリカ・マテル社の「ホットウィール」が登場すると、市場が激変した。 ピアノ線の車軸を採用したホットウィールは高速走行が可能だったため、それまで子どもたちが指先で転がして楽しんでいたミニカーが、レールの上を猛スピードで走行する玩具に変貌してしまったのだ。 ホットウィールの爆発的なヒットに、マッチボックスも対応せざるをえなくなった。ピアノ線の車軸を採用するだけでなく、サイケ調の塗装や、現実には存在しない改造車のボディと、実車とはかけ離れたミニカーばかりをリリースするようになってしまった。これによりマッチボックスのファンは離れていった。 そこに登場したのが1970年に発売された日本の「トミカ」だった。実車に忠実なモデルである上に、トミカは世界最高の品質を当初から実現していた。 私は、発売当初からのトミカをほぼすべて持っているのだが、初期モデルは発売から50年以上経つというのに、ボディや部品の傷みがないどころか、塗装の輝きさえ衰えていない。まさにメイド・イン・ジャパンの真骨頂だった。 もともと日本市場を意識して製造されたトミカだったが、すぐにその人気は世界に広がり、とくにアメリカ市場では大歓迎された。 私は1980年の大学卒業直前に、グレイハウンドのバスでアメリカを一周する貧乏旅行に出かけたのだが、少し大きな街のスーパーマーケットでは必ずトミカが売られていた。ポケットカーと名付けられたトミカは、一つ99セント程度だった。 ところが、1985年のプラザ合意で市場は激変した。もともと子どものおもちゃだから、売価を2倍にしたら、誰も買ってくれなくなってしまう。ポケットカーは安い香港製や中国製のミニカーにとって代わられ、80年代のうちに市場から姿を消してしまったのだ。