恩人から「お金なんかいらない」と言われた農業家がひねり出した“最高のお返し”のかたち
自然界というのは、一般社会にあるような分離・分断・分業が一切ない世界です。自然の力でできたものはすべて平等です。大きいから良い、小さいから悪いという短絡的な判断基準はなく、それぞれに役割があって無駄なものは何一つありません。これが、私の実感です。だからこそ、この世の中に役に立たないものはないと私は思っています。 自然界に生きる人間の命もまた同じです。私たち人類は、あらゆるものが循環し、長い時間をかけて誕生した生物です。そのなかで何か一つでも欠けていたら、私たちは今ここにいなかったかもしれないのです。 こうして自然の力を借りて作ったものには、商品としてだけでなく、もっと違う価値があることを実感したことがあります。 農業を始めて少し経った頃、土を掘る機械の一部がポキッと折れてしまったことがありました。その田舎町でも購入したところに持ち込んで修理してもらうのが一般的で、ちょうど社宅にしている家の隣に鉄工所があったので相談してみました。 ● 「代金はいくらですか?」 財布を持って尋ねた自分を恥じた 最近隣に引っ越してきたことや、農業をやっていることを伝えてあいさつをすると、鉄工所の人は「ちょっと見せて」と言って仕事の手を止め、パパッと溶接をしてあっという間に直してくれました。 驚いた私がいくらだったかと代金を尋ねると、鉄工所の人はお金なんかいらないとサラッと答えたのです。むしろ、いくらだったかと聞いてくるとはどういうことかを理解できないかのように、キョトンとされました。そのとき、私は初めて財布を持っていた自分を恥ずかしく思いました。
私は相手がわざわざ仕事の手を止めてしてくれた好意に対して、お金を払うことだけで終わらせようとしたわけです。鉄工所の人は自分の労働力を使って私を助けてくれたのに、私はなんの労力も使わず、貨幣という交換の手段で片付けようとしていたのです。 私は数日後に、自分が作った野菜を持って改めてお礼に行きました。鉄工所の人は笑顔で受け取ってくれて、やっと相手の好意にこちらの真心でお返しができた気がしました。同時に、自分で生命の源をつくっているからこそきちんとお返しできるのであり、これも農業をやっていたおかげだと実感しました。 もちろん都会に住んでいたら自分で何かをつくることは難しく、こういった出来事は地方だからこそ体験できるという側面も大きいです。そもそも分離・分断・分業で効率化ばかりを求め、いつも最高の利益を求めていくという生き方をしていては、交換の手段である貨幣が使い物にならないという価値観などは到底理解できないと思います。 お金を持っていることがすごいという考え方は、根深く肌の中に浸透していて、誰も疑わないように思います。でもそれで果たして何を得られるのだろうかと、私は真剣に考えました。貨幣がなくても回る環境に身をおくことや、財布を持っていて恥ずかしいと思う気持ちは、なかなか経験できるものではありません。 私は農業を通じてお金には代えられない価値のあるものをつくり続けていきたいと思います。
山岸 暢