上層部の指示に逆らい、開業初日に時速200キロ。60年前、東海道新幹線の一番列車で若き運転士がかなえた夢
1964年10月1日。東海道新幹線の開業初日、ある運転士が旧国鉄上層部の「時速160キロ」の運行指示に背いて速度を上げ、210キロを出した。 【写真】他社も当初は反対していたが…JR東海の葛西敬之氏、社長時代に明かしていた「新幹線食堂車を廃止した理由」
新大阪発の一番列車「ひかり2号」を運転した大石和太郎さん(91)だ。日本の鉄道史を彩るこのエピソードの主役と言える。開業にたどり着くには多くの苦難があった。仲間との合言葉は「新幹線を俺たちの手で」だった。 大石さんは、世界最速を目指して共に汗を流した仲間の夢を「絶対にかなえたかった」と振り返る。(共同通信=岩橋裕介、磯田伊織) ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。 ▽くせ者ぞろいの運転士候補 大石さんは1953年に国鉄に入社した。蒸気機関車(SL)の掃除や「釜焚き」からたたき上げ、「飛行機のパイロット並みに難しい」とされる新幹線運転士の試験をパスした。他に選抜されたのは、元特攻隊員や南満州鉄道(満鉄)の運転士ら一癖も二癖ある面々だった。時速200キロを超える電車は世界になかった。仲間達と「俺たちでいっちょやってやろう」と運転の訓練に励んだ。
当時、新幹線建設への逆風は強烈だった。自動車や旅客機の利用が広がる中、鉄道は時代遅れとの風潮があった。国鉄内でも反対論が噴出していた。その理由は建設費。当初計画の2倍となる3800億円まで膨らんでいた。 それでも、1964年10月の東京五輪開幕に間に合わせようと、多くの若手職員が力を尽くした。合言葉は「新幹線を俺たちの手で」。ついに1964年8月下旬、東京―新大阪間での試運転にこぎ着けた。 ▽開業日、上層部に逆らう「秘策」 だが、国鉄の上層部は訓練期間が短いことを理由にこう指示を出した。「開業は延期。営業運転も160キロだ」。悔しくてたまらなかった。大石さんは上層部と激しく談判し、開業延期だけは免れた。 そして迎えた10月1日。新大阪駅ホームに「夢の超特急」を一目見ようと多くの人が集まる中、大石さんはある作戦を胸に秘めていた。「速度をうんと落として時間を調整し、回復運転でスピードを出そう」