吉田茂元首相は直ちに憲法改正の「必要は認めがたい」と言った、固執した「再軍備の拒否」 「敗戦利得者」による主導権
【杉原誠四郎「続・吉田茂という病」】 そもそも、サンフランシスコ講和条約が発効して、連合国による占領が解除された1952(昭和27)年4月以降も首相を続けた吉田茂は、憲法改正についてどのようなことを言っていたのか。 57~58年にかけて出版された回想録『回想十年』(新潮社、全4巻)において、吉田は憲法第9条について、「今日直ちにこれを改正しなければならないという必要は認めがたい」と述べている。 そして、憲法改正については、「憲法改正のごとき重大事は、仮にそのことありとするも、一内閣や一政党の問題ではない」「国民の総意がどうしても憲法改正に乗り出すべきである、換言すれば、相当な年月をかけて、十分国民の総意を聴取し、広く検討審議を重ね、しかもあくまで民主的手続きを踏んで改正に至るべきである」と語っているのだ。 結局、「憲法改正はしない」と言っているようだ。まるで現在の極左野党のような物言いである。 51年1月26日、講和条約と日米安保条約の交渉のため、ジョン・ダレス対日講和条約交渉特使が来日した。ダレスはスタッフ・ミーティングで、日本側に飲ませようともくろむ不平等な日米安保条約について、「日本の主権を侵す」として、日本側は強く抵抗するであろうと述べた。 ところが、同29日から始まった日米交渉で、吉田はまったく抵抗せず、不平等な安保条約案を受け入れた。すでにヨーロッパで締結されていた北大西洋条約機構(NATO)の例から見ても、あまりにも不平等であった。 他方で、吉田が固執したのは「再軍備の拒否」であった。米国側が武器は提供するからと言っても、頑として再軍備は拒否した。 こうした吉田の立場からは、50年代の後半、憲法改正について、上記のような言い方しかできなかったといえよう。 だが、吉田の回想を抵抗なく受け入れた、当時の日本国民もものが見えていなかったといえるのではないか。日本にとって主権回復は憲法改正の最高の機会だった。吉田が主権回復後も首相を続けたために、その機会がつぶれてしまったという批判が、この時点では起こらなかったのだ。 54年12月に成立した鳩山一郎内閣では、56年6月に憲法調査会法を公布・施行した。翌57年8月、岸信介内閣のもとで第1回会合を開くが、憲法改正を視野に入れた調査会であったにもかかわらず、64年に最終報告を出したときには、憲法改正をはっきりとは結論付けなかった。